友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

映画『八日目の蝉』

2011年06月05日 23時19分55秒 | Weblog
 角田光代さんのベストセラー小説『八日目の蝉』の映画を観てきた。井上真央さんの大ファンである高2の孫娘から「見に行こう」と誘われていたが、やっと約束を果せた。「泣けるよ」と孫娘は言っていた。映画はテレビよりも濃縮な仕上げで、アップの使い方がうまかった。孫娘の大好きな井上真央さんも大人の女を演じていた。

 不倫相手の男の妻が産んだ子どもを盗んで育てる。これがこの物語の全てだ。井上真央さんはその子どもが大人になった役で、奪って育ててくれた女と同じように不倫相手の子どもを身ごもる。その子を産むか生まないか、それがこの物語の課題であった。物語の結末は産む方を選ぶのだけれど、それは産む側は幸せだとしても、生まれてくる子が幸せかどうかはわからない。

 もっと言うなら、人の幸せはその人にしかわからない。どこかの自治体が人の幸せを数値で表し、これを自治体の努力目標にしているそうだけれど、私は幸せを数値で表すこと事態がおかしい気がする。もちろん人は最低限度の生活が保障されなくてはならないだろう。平等とはそういうことだと思う。けれども、幸せはこうあるべきだと押し付けることはできないだろう。

 不倫相手の子どもを育てて来て、子どもを育てることが生き甲斐になっていく。それは当たり前のように思う。誰でも子どもを5年近くも育てていれば当然放したくない。一緒に生きていくことが自分の使命のようさえ思う。だから、子育ては自分の血を分けた子とかそうでない子とかは全く関係ない。自分が育てている子が自分に懐いてくれればそれだけで嬉しいのだ。

 それに引き換え、自分が産んだ子なのに自分に懐いてくれなければ、それは悲しみのどん底にいるのと同じだ。不倫相手の男の妻は自分の子どもが戻って来たのに、子育ての仕方がわからなかった。自分の思いばかりが先に出てしまった。これでは子どもは居場所がない。子どもは誰でも自分を可愛がってくれる人が好きだ。可愛がっているよと押し付けられたのでは、子どもはどう振舞っていいのかわからなくなる。

 実の子でありながら、不倫相手の妻にはその覚悟が無かった。子どもは親に懐くものだと思っていたのではないか。この映画では男はただ子どもをつくるためにしか存在していない。女ばかりの共同体がそれを象徴しているし、井上真央さんのところに現れたライターの女を演じていた小池栄子さんも男を必要としない女である。種付けだけもらえば、後は女が子どもを育てると言うけれど、本当にそれが人の幸せにつながるのかと疑問に思った。

 井上真央さんのお父さんも真央さんの不倫相手の男も、いい加減でウソつきで、女の肉体だけを欲しがっているような男だったけれど、それでもドラマ『お江』の秀吉のように、肉体と心を切り離せないのが一般的な男だろう。確かに女を口からだけでなく、愛していた、そうでなければ女も子どももそして男も惨めな気がする。
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