雨が上がって曇り空になった。絶好の作業日和りである。井戸掘りの時は、日焼けしないためと虫刺されから身を守るために、長袖を着用している。今日はルーフバルコニーでの植木鉢の土の入れ換えだから大丈夫だろう。それに太陽は隠れているからと、ちょっと油断した。午後5時過ぎに作業を終えて、バルコニーで汚れた手足を水で洗っていると、両腕が真っ赤になっている。ゴシゴシ洗い過ぎたのかと思ったが、洗面所で顔を洗って鏡を見ると、顔も真っ赤である。太陽は出ていなくても紫外線は確実に届いていた。
朝の9時から作業を開始し、もちろん途中で昼食を食べ、先週見られなかったNHK大河ドラマ『平清盛』も観て、再び外に出て作業を続けた。残りの鉢は大きめのものが4個で、小さなものが5個である。延び延びになっていたけれど、植える材料は既に揃っている。成長の悪いサルビアは諦めて、白・赤・ピンク・紫の4色の箱売りの日日草を買って来たが、雨降りのために作業が出来ずにいた。今日やらないとまた遅くなってしまう。そう思ったら、休むことなく続けてしまった。
全部の作業を終えてルーフバルコニーは花でいっぱいになった。休みなく働いて少々疲れた。ペースメイカーの辺りが痒いような、それでいて心臓はなぜか重い気がする。晩御飯の時は、今日はビールだろうと決めて、喉が渇いていたからガブガブと飲んだ。最近は酒に弱い。飲むとすぐに酔っ払ってしまう。いつもなら、食事の前にブログを書き上げてしまうのに、今日は酔っ払ってパソコンに向かっている。腰が重いということから、次に何につないでいくつもりだったのか、思い出せない。
憂鬱である。身体が無理が利かなくなっただけでなく、社会全体が重苦しい。私たちのような1940年代に生まれた人間は昔の人になってしまった。新聞や雑誌の学者や評論家の年齢を見ると、もう私たちの時代ではないと思う。しかし、それは当たり前のことだ。私も若い頃は、どうしてこんなに年寄りがのさばるのかと思った。私たちのような人間が60代や70代になれば、分別を知り、懐の深い人間になれるだろうと思った。しかし今、そうなってみると何も変わらない。全く同じことを繰り返している。
社会的な発言は極力少なくして、もっと個人的なというか人間の原点に近いところで、思うことを描いた方がよい気がする。たとえば、私たちの子どもの世代の中で、私たちが一番頼りにしている女の子がいる。今年の夏祭りは彼女が中心になるだろう。気がいい子で、よく動くから、オジサンたちがみんな大好きになっている。色が白くて、ちょっとやせているけれど、最近はどうしたわけか色っぽい。私の娘たちもここで暮らしていたなら、きっとそんな風にオジサンたちに見られていたことだろう。
歳を取っても、オジサンは男で、オバサンは女である。煩悩から脱却することは不可能なのだろう。むしろそれでいいのではないのかと私は思う。それは生き甲斐でもあり、生きるエネルギーでもある。