友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

フジテレビの『27時間テレビ』

2012年07月23日 21時23分48秒 | Weblog

 「サザエさんが終わる頃に、クサナギくんが100キロマラソンのゴールになるみたいだから見るね」とカミさんが言う。「清盛が見られなくなるよ」と返事をすると、「録画したから、タモリの方が終わったら見るから」と言う。そう決めてしまっている以上、逆らったところで変わるわけではないので、「ああ」と生返事になる。クサナギくんのマラソンが見たいわけではないけれど、確かにいつも、マラソンのフィナーレは感動させられる。人が精一杯の姿を見せるからなのか、それを支える人がいることが素晴しいのか、熱いものが込み上げてくる。

 フジテレビのこの『27時間テレビ』の目的はよく知らないが、以前は24時間で義援金を集めていたのではないだろうか。今回の最終場面を見ていたら、タモリの引退セレモニーのように思えた。タモリは昭和20年生まれだから、もう引退してもよい年齢だ。本人はまだまだ若い者には負けていないと思っているのだろうが、現役で活動している年寄りはみんな「自分がいなければ」と思っている。けれど、実際のところは悲しいかな老害である。

 それに、『笑っていいとも』を見ていると、今、問題になっている「いじめ」の原型ではないかと思う。本人は決していじめているつもりはないのだろうが、大勢の人間でひとりをターゲットに、チビだ、ブスだと生まれながらのどうしようもない部分を取り上げて笑う。あるいは「お遊び」と称してバツを与える。そしてみんなで無理やり言わせたり、やらせたりと、はやし立てる。ボスには決して逆らわないが、弱そうな者にはみんなで集中攻撃を仕掛ける。テレビのバラエティ番組なのだから、そんなに目くじらを立てることはないのかも知れない。でも、やっていることは学校の「いじめ」と同じだ。

 私たちの子どもの頃は、やっとテレビが出始めたばかりで、そんなにテレビの影響力はなかった。それでもプロレスの技を見たボスはそれを「遊び」で使ってみせた。私の娘たちは、テレビドラマやアニメの影響を受けていたし、高校3年の孫娘はテレビを見ていないので「話題についていけない」と嘆いている。1対1で話したり考えたりすれば出来ないことでも、1対多数になると残念ながら人間は凶暴になる。内ゲバや連合赤軍の「総括」、宗教対立や民族対立など、憎悪が恐怖を恐怖が憎悪を生み出してきた。ここまで来ると笑ってはいられない。「遊び」だからと言うがどうも同じように思えてならない。

 最近、テレビが面白くないと私くらいの年代の人は言う。NHKも民放と変わらなくなった。昔の笑いには「味があったのに、近頃の笑いには毒がある」と嘆く。「落語がすたれて、お笑いタレントのトークはけなし合いばかり、もっと本当に心から笑える番組が欲しい」と言う。テレビがなかった子どもの頃は、ラジオを枕元に置いて、落語をよく聞いた。布団の中で、クスクスひとりで笑っていた。それを懐かしいと言うだけで本当にいいのだろうかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする