愛知県は自動車事故が多い。道路の整備も進んでおり、自動車そのものが多いからだろう。しかし、トヨタ自動車はなぜ愛知県に根を張ったのだろう。トヨタ自動車は織機王と呼ばれた発明家、豊田佐吉の長男の喜一郎が立ち上げたものだ。豊田佐吉は1867年(慶応3年)、現在の静岡県湖西市で生まれた。翌年には明治政府が樹立されている。父親は大工で、仕事のないときは農業をしていた。長男の佐吉も父親のあとを継いで、豊橋で大工の見習いを始めている。
「教育もお金もない自分は、発明で社会に役立とう」と佐吉は18歳の時に決意した。つまり、発明で出世しようとしたのだからたいしたものだ。そこで目を付けたのが機織機で、1890年には木製の人力織機を発明している。機械と言っても、大工仕事の延長のようなものであったという。西洋の機織機を研究するために、現在の半田市乙川にやって来たようだ。それが乙川の庄屋の石川藤八との出会いで、石川の屋敷に身を寄せ、本格的な発明にのめりこんでいった。
納屋に閉じこもって織機の改良に集中する佐吉は、周囲の人々からは狂人扱いであったようだ。佐吉自身が「明治の初年において、動力などというものを考える人は、よほど“はいから”の部類であった」と回顧している。「周囲の空気は冷たい。誰ひとり労わってくれる者もいない。労わるどころか、謗る者ばかりである。田畑の少しあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明にみんなつぎ込むのだから、とても周囲の人たちがよく言うてくれそうな筈がない」と続けている。
佐吉が生まれるまでの封建社会では、身分を越えて活躍することは出来なかった。発明で出世しようとしたのは、明治政府そのものが下級武士のよる革命だったからだろう。だから静岡の小さな村の大工の倅が大きな夢を抱くことが出来た。けれど、夢だけでは食っていけない。佐吉ら3兄弟は仲が良かったようだ。トヨタを大きくした甥の豊田英二は「3人は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちの親父も好きだったが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう」と述べている。佐吉に弟の、つまり豊田英二の父親の平吉がいなかったら佐吉も織機王になれなかっただろうし、石川藤八との出会いがなければ発明家にもなれなかっただろう。
佐吉は1918年(大正7年)に豊田紡織株式を設立しているが、それがどこなのか私は知らないが、現在の豊田織機の本社は刈谷市にある。私の祖父も豊田織機の株を持っていた。トヨタ自動車を作り上げた豊田佐吉の長男の喜一郎は、東大の工学部を卒業して、父親が興した豊田紡績に入社し、自動織機の研究に従事している。喜一郎は自動車に関心を持ち、英米の自動車工場を視察し、1933年(昭和8年)に父親の支持を得て、豊田自動織機製作所に自動車部を設置している。さらに荒地であった三河の挙母(ころも)に広大な土地を買い、自動車の生産に乗り出した。
その頃の日本は大陸への進出を狙っていたから、喜一郎が目指していた大衆自動車の生産は戦後に持ち越され、それも朝鮮戦争のおかげで生き返られる巡り合わせにあった。喜一郎が東大時代に築いた友人らが戦後のトヨタ自動車の原動力になったのも面白い。人は良き人に出会って、飛躍出来る。それにしても静岡の人が愛知に根を張ったのも歴史の偶然なのだろうか。