ロンドン・オリンピックが開会式を迎えるというので、各テレビ局はその報道で溢れている。どんな開会式になるのか興味深いけれど、夜中に起きてそれを見たいとも思わないへそ曲がりである。オリンピックの開会式はまるで映画の一場面にいるようだと、北京オリンピックの開会式にいた人が話していたけれど、ニュースで見ても凄い演出だと思った。スポーツの祭典ではあるけれど、同時に開催国の文化を総結集するような面もある。それは面白い現象だと思う。
古代オリンピックの時は、その間だけは戦争をしない約束であったらしい。近代オリンピックの提唱者、クーベルタンも平和への希求を述べていたと思う。けれどもオリンピックは政治的に利用されてきた。ヒットラーもそうであったし、オリンピック村がテロ攻撃されたり、大会のボイコットもあった。今朝のニュースの大半は、日本のサッカー男子が優勝候補と言われているスペインを破ったというものだった。「なでしこジャパン」の勝利がさきがけとなっているのだろう。
私は国対国の競い合いになるよりも、オリンピックは個人あるいはチームの活躍を称える場になって欲しいと思っている。スポーツのレベルアップのためには、国の全面的な支援が欠かせないと言われているが、そんなにまで、つまり国家の予算をつぎ込んでまで行なわなくてはならないものなのだろうか。陸上とか水泳とかボートとか、1千分の1とか、1万分の1とかを争うことになるが、その勝利を得るために国がなぜ関与するのかと思ってしまう。
個人のあるいはチームの努力には感心するし、今朝のサッカー男子の勝利の時は思わず涙を流してしまった。だからスポーツで必死になって戦うことを否定する気は全くないけれど、個人やチーム、あるいはそれを応援する人がいてもいいとは思うけれど、国家で競うことはないと言いたい。戦争のような悲惨な戦いではないスポーツの戦いなら、国家間で競い合うのはむしろ平和的でいいのではないかという意見もあるけれど、私には戦争よりはマシという程度である。
個人やチームの競い合いになれば、オリンピックの精神も運営も自ずと変わっていくと思う。国家などはいらないと思っている私は、国同士が競い合うことがどうしても好きになれない。きっとそのうちに、国同士で争うスポーツの祭典ではなくなるはずだと思っている。アメリカから3週間ぶりに友だちが帰国したけれど、オリンピックのことよりもアメリカ社会の鷹揚さというかルーズさが話題になっていた。世界の警察を自負し、その頂点に立つアメリカも、個々の田舎では誠にのんびりとしているようだ。