友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

歌を忘れたカナリア

2012年07月16日 21時26分12秒 | Weblog

 共同通信社が実施した世論調査では、小沢新党に期待しないの回答は81%だと新聞が報じていた。テレビでも河野洋平さんが、民主党の支持率も自民党の支持率も小沢新党の支持率も大きな違いはないと言い、「政党への期待感が国民にないことが問題ですよ」と発言していた。政党に期待が出来ない人々は、大江健三郎さんや坂本龍一さんらの呼びかけに応えて、『さよなら原発10万人集会』に参加して、自分の気持ちを表している。ここ、名古屋でもツイッターの呼びかけで「原発いらない」デモが行なわれた。政治への関心の形が政党を越えている。これからは、無党派市民派あるいは無党派改革派が増えていくと思う。

 小沢さんは消費税増税反対と脱原発の2つをスローガンに掲げている。私は正しいスローガンだと思うけれど、それでも小沢新党を信用していない。それは、小沢さん自身が「消費税増税は今はすべきではないが、いつかしなければこの国はダメになる」「脱原発の方向を向くけれど、諸外国との競争に勝つためにはエネルギーの安定供給は不可欠だ」と考えているからだ。消費税増税反対も脱原発も、選挙で勝てる政策だからだ。勝てるための政策と自分の思想とがかけ離れている点で、全く民主党と同じで信用出来ない。

 「歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか」という童謡を思い出す。歌えなくなったカナリアは棄てられたり、埋められたり、柳の鞭で打たれたりと、実に恐ろしい歌詞が続く。きれいな声で鳴くカナリアへの期待が大きいだけに、鳴けなくなってしまっては価値がないということなのだろう。でも、歌詞の最後は「象牙の舟に銀のかい 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」とある。作詞者は西条八十で、国が教育のために主導した唱歌に対して、「子どもたちの美しい空想や純な情緒を傷つけず、優しく育むような歌と曲を与えよう」と、童謡が生まれたのだが、内容的にはかなり文学的だと思う。

 小沢新党も民主党も自民党も、「忘れた歌を思い出す」ことは決してないだろう。その点では無情のようだけれど、棄ててしまった方がいい。既成政党に幻想を抱いていたから政治は変わらなかったのだ。むしろ、最近なぜか頻繁に起こっている「小中学生の自殺やいじめ」の問題に、「カナリア」の歌を重ねてみたいと思う。カナリアは鳴き声もキレイだが、その容姿も美しい。そんなカナリアなのに1羽だけが声が出ない。中でも一段とキレイなカナリアがそれをあざ笑う。するとお調子者のカナリアたちが「歌を忘れた」とバカにする。周りのみんなも「どこに棄てようか、埋めようか」とはやし立てる。悲しくなったカナリアは死を決意する。これを大人たちは「遊びでやっている」としか見ない。

 いじめは時々遊びの形を取る。だから、いじめた側の連中は大人になると忘れてしまう。しかし、いじめられた側の者は深く心に刻み込まれている。一番大事なのは、相手の立場に立ってみることだ。自分は遊んでいるつもりでも、相手は苦痛と思っている。消費税増税も脱原発も、そういう社会をどうやってつくっていくかだと思う。一歩前に進んでみよう。相手はどう思うのか、それではどうなるのか、考えてみよう。

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