友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

次女と長女

2012年07月07日 15時36分51秒 | Weblog

 昨夜から次女が帰り、にぎやかになった。小・中学校の友だちと久し振りに会うためらしいが、その間、ダンナは一人暮らしで大丈夫かと心配になる。次女の過剰なまでの世話から解放されて、のんびりと「鬼のいない間」を満喫しているのかも知れない。それならそれでいいと思う。人はたまには日常とは違う世界に居たいものだ。旅行はその典型で、「据え膳で食べられるのがいい」と女性たちは言う。「出来れば、ダンナがいなければもっと楽しい。旅行に来てまで世話をするのはイヤ」とまで言う。

 「家族は好き。愛している。それでも消えてしまいたい時がある」とも言う。みんな一生懸命に生き、相手のことを思いやり、尽くしているけれど、時には自分ひとりだけの勝手気ままな空間と時間が欲しいものだ。誰もが真剣に生きているし、誰もがアイツを落とし入れてやろうなど考えているわけではない。しかし、たまたま病気になる人もいれば、事故に遭う人もいる。不幸な出逢いもあるが、逆に幸せな出逢いもある。人の一生なんて正直に何が良くて何が悪いのか、分からない。

 新生児集中治療室で働いている長女が、その専門の雑誌に「子どもと家族の未来を大切にしたい。(略)感情ではなくエビデンス(根拠。医療行為における確率的な指針のことを指すのだろうと私の解釈)に基づいたケアを実施できるように」と書いていた。彼女は「看護の道」を天職と言えるようになった。自分の仕事をそう言い切れる人はそんなに多くいないだろう。良い仕事にめぐり合ったのか、たどり着いたのか、あるいは長女自身の努力がもたらしたものなのか、結果的にはそんなことよりも「現在」が大事なのだろう。未来は現在の中にあるのだから。

 雑誌には長女の座右の銘として、「遅すぎることは何もない。いつでも、何歳でもチャレンジできる」とあった。私は、人生は一度切りだけれど、現在が全てではない。チャレンジできる仕組みが大事と言ってきた。挫折や失意は必ずやってくる。打ち負かされてもいいじゃーないか。そのうちにまた、やりたいことや、やらなくてはならないことが、必ず生まれてくる。すると次女が、「そんなこと言われたかなあー」と言う。次女にとっては「遅すぎることは何もない」という実感がないのだろう。自分が関心のないことは忘れてしまうものだ。

 今日の『悩みのるつぼ』に、90代の女性が「あの世で父を殴りたいです」とあった。修学旅行の記念写真に写った豆粒ほどの彼女の顔を見て、「鼻の低いのが分からなくてよかったね」と言ったことや、離婚したいと帰宅したら、「たったひとりの男の機嫌もとりきれないのか。女郎は一晩に5人も10人も手玉にとる。お前は女郎以下だ」と怒鳴られたことへの恨み辛みから、あの世へ行ったら父親を殴ってやりたいというのである。ああ、こういうことってあると思った。

 私も長女に「自分はどうなんだ」と茶々を入れたり、あまりに世話焼きの次女に「それがうっとうしいんだよ」と言ってしまったりする。言ってしまってから、ああしまったと思っても後の祭りである。親しみのために、あるいはちょっと気付いて欲しくて、言った言葉が言われた方にはグサッと来ていることがある。この女性の父親もきっとそうなのだろうが、人はなかなか分かり合うのは難しい。

 今晩は、私が教師になって初めて担任になった子どもたちの還暦のクラス会だ。明日はお手伝いをしたデイサービスの仲間との昼食会があり、夜は孫娘の誕生日のお祝いなのでブログはお休みです。

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