昨夜、長女から写メールが届いた。写真は高校3年の孫娘の浴衣姿で、わざわざ正面からと後姿の2枚が添付されていた。きっと孫娘が母親に送ったものを、ジジババである私たちのところに送ってくれたのだろう。長女のメールは、「小学校の同級生男女4人で、七夕祭りに行きました。寂しいような、嬉しいような、この時期にこんなことしてていいのかと怒れるような‥。門限言うの 忘れました」とある。母親の複雑な気持ちがよく分かる。
長女だってそんな時期があった。何かあったらどうしようと不安になるのは親としては当然だろう。孫娘はちょっと晩生なのか、ボーイフレンドの話は出てこない。小学校の6年の時に、バレンタインチョコを作って持っていったことがあったけれど、中学校ではその手の話はなかったような気がする。水泳が全てであったから、異性への関心がなかったのか、あるいは厳しい母親を意識しすぎて、異性や恋愛の話ができなかったのか、どちらか片方というよりダブっているのかも知れない。
我が家では高校生までは午後11時が門限であったけれど、子どもたちもそれは守っていたように思う。高校を卒業すれば一切干渉はしない、何をしても自由と言っていた。親としてできる援助はするけれど、それは物理的な援助であり、お金とか車での送迎とかいったもので、自分で良かれと思ったことをやっていくしかない。娘たちは自分で好きな人を見つけ、それで結婚していった。子どもには子どもの人生があり、親だからと言っても子どもの人生を生きられるわけではない。
昨夜の夏祭りの打ち合わせ会は、友だちがアメリカから帰国したばかりということもあって、打ち合わせを終えたら久し振りの飲み会となった。「若い人たちはすぐに天職を見つけたがるが、実はそんなものはない。あれこれやっていくうちに人生を見つけていくものだ」。そんな話をしているうちはよかったけれど、「だいたい、国旗や国歌に対する畏敬の念がなくなっている。この元凶は日教組で、日教組のバカが日本を台無しにした」と言う。「公務員なら、国歌や国旗に忠誠を尽くすのは当然だ」と、まるで橋下大阪市長のようなことを言う。
酒の席とはいえ、私は元日教組の組合員である。そんなに悪者にされたのではちょっと黙っているわけにはいかない。日教組が「子どもたちを再び戦場に送るな」をスローガンにしてきたことは事実で、戦争に結びついた国歌や国旗に反対してきたことも事実だ。けれど、子どもたちに国歌を歌うなとか国旗を見るなとか強制してきたわけではない。むしろ、どのようにして再び戦争をしないようにするか、この国民の課題をないがしろにしてきたことに問題がある。畏敬とか愛着とかは心が求めるものだ。強制しなくてはならないのは不十分だからだと思う。
「オリンピックで、日の丸が揚がれば嬉しいと思うのが日本人だ」と言う。私も感激するし、誰もがそう感じるだろう。それでよいはずなのに、「嬉しいと思うべきだ」とまで言われると、「それは違うでしょう」と言いたくなる。自由でありながら、まとまっていく、まとまっていきながらも自由である、そういう社会が私は好きだ。