今日は暑かった。青い空とギラギラと輝く太陽は夏そのものであった。カミさんはやはり晴れ女だ。今日は信州でゴルフが楽しめたことだろう。信州は緑が深まり、初夏の香りと気持ちよい風が流れているだろう。高原の朝は爽やかで、遠くの山々を眺めながら飲む朝のコーヒーは格別な気がする。
それに引き換え、私たちの井戸掘りは失敗だった。土曜日に買い求めた部品は間違いだった。昨夜から、どのように接続するのかと考えていて、買ってきた部品ではつながらないのではないかと不安に思った。今朝、「ここはどうなっていたか、覚えていますか?」と皆さんに聞くが、やはり誰も記憶が定かではない。部品を作った先輩にたずねても、いろいろ教えてくれたけれど、肝心なところはハッキリしなかった。現場について確かめてみるとやはり部品が違う。とりあえず、管の中に水がどれだけ溜まっているかを調べて汲み出してみるがやはり水量は乏しい。
9メートル30センチまで掘れたけれど、私たちの能力ではこれ以上は掘れないと依頼主に伝えるが、「もう一日だけ挑戦して欲しい」と言われる。明日から仲間のひとりがアメリカに行ってしまう。常時働けるのは私ともうひとりしかいない。これでは先が思いやられる。仲間を募って、もう一日、頑張るしかない。
発明王のトーマス・A・エジソンの睡眠時間は、30分ほどの仮眠を1日に6回、つまり3時間であったという。ナポレオンもそんな具合だったから、眠る間を惜しんで研究に没頭したということから、そんな風に言われたのかと思った。しかし、「エジソンの研究所の時計は針がなかった」とまで言われているから、夢中になりだすと止まらなかったのだろう。エジソンも「若い頃は、1日8時間労働などというものはなかった。私が仕事を1日8時間に限っていたら、成功はしなかった」と語っている。
私がエジソンのことで知っていたのは、白熱電球を発明したことと小学校を中退したことだった。エジソンは1847年の生まれで7人兄弟の7番目の子だった。小学校で先生が1+1=2と教えると、1個の粘土と1個の粘土を合わせると大きな1個の粘土になるのに、どうして2個なの?と納得しなかった。また、「AはどうしてPとは言わないのか?」とか、絶えず「なぜ?」を発していたようだ。先生は怒って、「君の頭は腐っている」とまで言ったという。エジソンは退学し、小学校の教師だった母親に学んだ。母親はエジソンを理解し、家の地下室に彼のための研究室を作った。
ちょっと変わった少年だったエジソンが22歳の時、特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、特許権を譲って欲しいと申し出があった。それはエジソンが思っていた金額の8倍もの高額だったから、「心臓が止まるかと思った」と回顧している。ここから発明王としてのエジソンの人生がスタートしていった。彼は同じように発明に取り組む仲間を研究室に集め、発明集団として機能させるマネジメント能力も高かったようだ。生涯の友だった自動車王のヘンリー・フォードはエジソンの会社の社員だった。
エジソンは発明だけでなく企業経営にも熱心で、対抗勢力を力でねじ伏せたり、公開前の映画を複製して巨額の富を得たりもしている。発明の権利を守る訴訟も多く、訴訟王の異名もある。晩年は死者との交信について研究しているから、やはり変わった人である。