昨日、出かける時にルーフバルコニーの排水口を掃除しておかないとマズイと思ったのに、今朝見るとかなりの水が溜まっている。思いついた時にやらないと、結果は必ず悪い方に出る。個人的なことも、国家的な規模のことも、変わりないようだ。こうしておいた方がいいと思ったことは、まず何よりも優先してやらなくてはならない。個人的なことは、つい忘れてしまうこともあるが、国家的なレベルのことは組織が見逃さないはずだ。しかし、政治の世界を見ているとそんな風に組織は機能しないようだ。
大津の中学生の自殺問題でも、教育委員会は学校の対応に落ち度がなかったように言っていた。福島の原発事故でも監督する側の保安院は、東電からの情報をそのまま流していた。大津の場合は市長が、「いじめに原因があったのでは」と言い、昨夜は警察が学校と教育委員会を捜査する事態となった。教育長も教育委員も市長が任命し、議会が承認するのだが、市長は今年の1月に就任しており、教育長も教育委員も前市長が任命した人である。教育委員は一般の人から選ばれる場合が多いけれど、教育長は校長を勤めた人から選ばれるのが圧倒的だ。
以前、教育長を一般から募集した自治体が幾つかあった。そんな形で教育長になった人と話をしたことがあるが、「現場(学校)は私の言うことを聞いてくれない」と嘆いていた。現場の先生は「理想論ばかりで現場を知らない」と批判する。そういう面があったとしても、そうであるなら教育のあり方を本気で議論できてよいと思うけれど、不満は「現場を知らない」だけではなかった。先生の出世コースは、校務から教務、そして教頭となり校長が学校の頂点である。その校長の中からさらに教育長という職があるのに、一般から教育長になる人が出てくると校長止まりになってしまう。
教育長が頂点であるから、教育長に逆らえばその道は遠のく。校長に逆らえばその道は遠のくのと同じだ。教育の世界はそうしたピラミッド型の構成になっているから、ある意味で教育者としての能力に疑問な人でも校長になっていく。現場の教育に熱心な先生よりも、上に見込みのよい先生が出世していく。これにどこの大学を出ているか、学科は何かという閥が絡んでくる。真面目に教育に取り組む先生が平教員で終わってしまうのもこの仕組みのためだ。
大津の教育長がいじめについての生徒のアンケートを「しっかり読まなかったかも」と答えたのは本当かも知れない。事件が起きれば校長は教育長と相談する。お互いに大きな事件にならない方が出世と名誉のためにいい。互いの利益のために、小さいうちに済ませてしまおうとする。校長が「調査したが、自殺はいじめとは関係ない」と言えば、「そうではないだろう。もっとキチンと調べた方がいい」と言う教育長は少ないだろう。
けれども今、教育長も校長も「しまった」と思っているに違いない。マズイと思っていたことを見逃した時点で、教育者としての自分の務めを放棄してしまったと気付くべきだった。責任を取らない大人が多いと以前書いたけれど、気付いてもやらない大人が、私を含めて多い。世の中がよくならないのはここに原因がある。