友だち夫婦がアメリカに旅立つ時、1坪農園の「野菜を収穫しておいて欲しい」と頼まれた。家に帰る時に畑を見ると、丁度隣の畑の人がいたので、「今朝、採るように頼まれていたんですが、時間が無くて出来なかった。申し訳ないけれど、そこのキュウリ2本切ってくれませんか」とお願いした。切り取って、「どうしますか?」と聞くので、「家に持って帰ってください」と言うと、「私のところもキュウリを収穫したところなので」と言われる。「じゃあ、私がもらって行きます」とキュウリを2本受け取った。
隣の畑の人も知り合いだったから良かった。いくら、友だちから頼まれているからと言っても、日頃は畑に入ったことのない私がごそごそやっていたのでは、泥棒と間違えられることもある。そうでなくてもこの1坪農園の作物は丁度良い時期に盗まれることがあるそうだ。友だちに言わせると、「この畑をよく知っているが、ご近所ではない人が犯人」と言う。「大根やトマトやキュウリの1本や2本盗んで、もし誰かにその現場を見つけられたら恥ずかしくてここでは暮らしていけない」というのが、彼の論拠である。
他人がせっかく楽しみで育てているものを盗んで行くとは情けない。買ってもたいした金額ではないはずなのに、手を出してしまうのはどういう理由なのだろう。「花泥棒は罪にならない」というような言い伝えもあるけれど、花を育てている側からすれば、せっかくの楽しみを奪われガッカリしてしまう。花泥棒も花が好きな人なのだから、盗まれた花もきっと大事にされているはずだという日本人のおおらかさがそんな言い方になったのかも知れない。
日本人の付き合い方は昔からおおらかというか、ギクシャクすることは少なかったようだ。それは狭い土地で、農業という助け合わなければ暮らしていけないことを生業としてことに由来するのかも知れない。農業を離れた江戸のような都会では、知らない人間同士が長屋のような共同住宅で暮らしてきたから、ここでも助け合わなくてはならない社会が形成されたのだろう。支配者にしてみれば共同で監視し合う仕組みだけれど、暮らしている側にとっては心強い仲間意識だったのかも知れない。
その友だちの家の玄関先に、生協の箱が置かれたままになっている。息子さんがひとり残っているけれど、どうしていいのか分からないのだろう。私はおせっかいにも息子さん宛てに、「家の中に入れて置くように」と張り紙を書いておいた。田舎から珍しいものが送られて来たからと「おすそ分け」をいただいたり、美味しいものが出来たからと一緒にご飯を誘われたり、昔のように「醤油を貸して」の付き合いをしている。くどくならず、さりとて疎遠にならず、気持ちの良い距離を保つようにと努めている。