友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

暴力に線引きなどない

2013年02月01日 19時03分50秒 | Weblog

 テレビで柔道女子日本代表の監督、園田隆二さんの記者会見を見ていた高校3年の孫娘が、「(自分が通っていたスイミングスクールの)コーチはセクハラだね。私たちみたいに大きい子は分かっているからいいけど」と言う。コーチが「やるぞ」と表明し、選手が「やられた」と了解しているから「いい」けれど、何も分かっていない小さな子には、コーチの「バツ」はセクハラだと言うのである。

 園田監督も「暴力という観点で手を上げた認識は全くない」「感情的にたたいたのではなく、強くしたいという思いだった」と話していた。トークショーでもゲストが「体罰は絶対にいけない。どこまでかという線引きが大事だ」と言う人がいた。信頼関係があれば多少のことはいいという論理だ。園田監督も「私の一方的な信頼関係だった」と話していたから、監督と選手の間に信頼関係が出来ていれば、たたいても蹴っても問題は起きないと思っていたのだろう。

 それは孫娘たちにも言えることで、たたいたり殴ったりつねったり触ったり、それは指導者が教えるための手段で、好意から生まれたものと思っている。そのように了解できれば、後はどこまでならば指導を越えない行為か、線引きの問題というのである。憎いからたたくのではない、むしろ涙を流しての「愛のムチ」だと、指導者も教えてもらう側も、そして世間もそう受け止めてきた。父兄の中には「たたいてやってください」とお願いする者もいるくらいだ。

 スポーツ界では当たり前と思ってきた指導者に絶対従うことが、「良い結果を生む」「強い選手になる」「試合で勝てる」神話を作り上げてきた。しかし暴力に線引きなどはない。たたかなければ指導できないようなコーチや監督はいらない。信頼関係は理論や情熱で作られるのだろうけれど、たたいたり暴言を吐いたりすれば、その途端に崩れてしまう、そういうものだとしっかり学ぶべきだろう。

 我が子であっても別の人格である。ましてや選手や教え子をたたかなければ理解させられないのであれば、指導者失格である。どこかの高校の運動部の監督が「たたかれなければ分からないヤツは犬猫以下だ」と言って、殴っていたそうだが、理解させられない自分こそ恥じるべきだ。園田監督がマシなのは、自らテレビの前に出て謝罪したことだ。桜宮高校の先生は「体罰を行なったことはなく、あくまでも指導の一環である」と主張するなら、なぜ公の場で堂々と自分の教育論を述べないのかと思う。

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