自民党の石破幹事長と元自衛隊の幹部で国会議員になった佐藤議員の講演会があるというので、開演よりも1時間半以上も前から大勢の人が開場を待っていた。国会での連立のためなのか、公明党の市議会議員も早々と会場に駆けつけた。「強い日本!」が各地で叫ばれている。友だちと昼飯を食べていた時も、「国のために戦った人を敬わない国がどこにあるか」とか、「戦争に行ったことのない連中が戦争反対を言うのはおかしい」とか、「中国と戦争したって自衛隊の方がはるかに整備も士気も高いから負けやしない」と、意気盛んだった。
「弱くたっていいじゃーないの。戦争で死ぬより、しないで生きた方がいい」と私は思っているけれど、ひとりで酒飲みの人たちに立ち向かう勇気はない。私のような人は確実に少数なので、口に出して意見を言うには難しい雰囲気がある。人を叩いたり、無理やり従わせることはいけないと誰もが言う。人を傷つけたり、殺したりすることは絶対にしてはならないと言う。なのになぜ、戦争は許されるのか、それが私には分からない。戦争は無差別の殺人ではないのか、戦争は暴力以外の何物でもない。
「いじめられたら、いじめかえせ」「いじめられないように、強くなれ」。それが正しいのであれば、北朝鮮が核実験をしたり、ミサイルの発射実験をしたりすることも正当化されてしまう。どこの国も核兵器を持ち、いざとなれば打ち込むぞということになれば、緊張は高まるばかりだ。だから核兵器を分散してはならないと核保有国は言うけれど、そうなれば核保有国の言いなりになるしかない。だから、「強くなって、国益を守る」と考える人々が出てきても当然だろう。
キリストは言った。「あなた方の敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行ない、あなた方を呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈り続けなさい。あなた方の一方の頬を打つ者には、他の頬をも差し出しなさい。また、あなた方の外衣を取って行く者に対しては、下着さえ与えることを控えてはなりません。あなたに求める者には誰にでも与え、あなたの物を取って行く者からは、それを返してもらおうとしてはなりません。あなた方は、自分にして欲しいと思うとおりに、人にも同じようにしなさい」。
欧米はキリスト教国なのに、キリストの言葉は空虚だ。いや、キリスト教国は一度もこれを守ったことがない。それが人の本質なら、なんと虚しい時空を生きているのだろう。明日は、『60歳の集い』から8回目の集まりのため、ブログは休みます。