家から2度、外に出た。1度目は、昨年伊予の西条市へ行った時、秋祭りのだんじりの前で、秋川雅史さんと姉とを撮った写真の額を買うためだ。写真は姉の家で飾られていたけれど、写真と額とのバランスが悪かったので、先日行った時に、「入れ換えてあげる」と持って来た。叔父さんの葬儀で出かけることが出来なかったが、やっと約束を果たすことが出来た。
もう1つは午後で、昨年児童公園に掘った井戸の手押しポンプが、水を汲み上げていないので見て来て欲しいと連絡が入り、出かけて行った。冬場で水位が下がったのかと心配したけれど、充分に汲み上げていた。どうして水が出ないと思ったのか分からないけれど、何も問題がないようなので安心した。
それにしても外はとても寒かった。特に午後は風が冷たかった。わずか30分ほどの外出だったけれど、それでも外の空気に触れるのはいい。家にばかりいると、どんどん怠け者になってしまう。「家で何をしているの?」と聞かれることがあるけれど、昼寝をして大方は新聞や本を読んでいる。外に出れば、風や木々や雲や光など、見聞きすることが出来るのに、家にいてはブログのネタが見当たらなくて困ってしまう。
昨日、叔父さんの葬儀があったことを友だちに話した時、自分はどういう葬儀にするかという話で盛り上がった。現役を退いて何年も経ているので、「やはり家族葬でいい」と言う。最近では身内だけでこじんまりと行なう家族葬が増えている。「骨は山に散骨して欲しい」「いや、海に撒いてもらいたい」などと勝手なことを言い合って笑った。私は火葬場で骨は拾わなくていいと思っているが、どうしても拾わなくてはならないなら、砕いて山でも海でも好きなところに撒いて欲しいと思う。
友だちが「仏教ではこの世というのは仮の世で、あの世のための修行の場。だからこの世でよいことをしておけば、あの世では楽に生きられる」と言う。あの世など見たこともないから、この世が充分楽しければそれでよいと思う。キリスト教でも最後の審判の日が来ることになっている。神様が地獄へ落ちろと言うのであれば、逆らうことは出来ないのだから、従う他にないと思っている。
仏教にもキリスト教にも興味はあっても信仰できなかった私は、その罰を受けなくてはならないと覚悟している。だから葬儀の形はなくていい。残った人たちで、私を肴に、飲んで食べてしゃべってくれたら、それでいいと思う。こんなことを書くとまた皆さんからお叱りを受けそうだ。ネタが見つからない日は困ったものだ。