この地方の桜の開花予想は3月24日とある。満開になるのはそれから1週間後くらいだから、3月31日か4月1日というところだ。今朝は一段と冷えてマイナスの気温だというが、着実に春に向かっているようだ。明日でなくても、せめて何日と決めてくれると、その日に向かって頑張ることが出来るのにと思うことがある。
どうも私たち日本人は、「じゃー、またいつか」と約束することが多い。またいつかでは分からないし、不安になる。小学校や中学校の時のクラス会は決まっているし、今度の土曜日に行なう「60歳の集い」から始まった集まりは、毎年2月の土曜日と決まっている。高校は同窓会が開かれているようだけれど、私は一度も参加したことがない。その代わりに、新聞部で一緒だった者の集まりを続けているが、これがいつ開かれるのか決まっていない。
何でもそうなのだろうが、結局呼びかけ人がいるか否かであるようだ。呼びかけ人がいないような集まりは、絶対に開きたいというほどの必要性がないということだろう。それでも不思議なことは、年を重ねるにつれて、そろそろ会おうかという気持ちになるということだ。人恋しいというか、同じ時を過ごしてきた仲間に出会うことで安心するのかも知れない。
私が高校に入学してまもなくして、安保闘争が起こり、樺美智子さんが亡くなったことを新聞で知った。体育館に全校生徒が集められ、どこかの新聞記者が講演したけれど、その内容は全く覚えていない。新聞部にいたけれど、安保の話に夢中になる人はいたのかも知れないが、私は知らない。2学期になって、1つ上の先輩がいないからというので、1年生の私が部長を務めることになった。
その頃の私の関心は、普通高校は大学への予備校であり、人間教育としての高校教育は存在しないという思いだった。それを校内新聞に書くことは出来なかったので、一般新聞の声に投稿して、記事になった。校内新聞の主張欄に友だちが書いた記事で、校長室に呼び出された。それなら自分たちで新聞を作ろうというので、有志からお金を集めて新聞を作り、校外で先生に見つからないように配布をした。そんなことをすれば停学になると心配した友だちもいたけれど、応援してお金を出してくれた友だちもいた。
印刷は私の家の近くの印刷屋に頼んだ。私は父とは友だちのように思っていたし、呼び出しがあるかも知れなかったので、ことの成り行きを話しておいた。生徒会長となり、卒業式で送辞を述べることになった時、父は何を思ったのか、私の原稿を筆で清書してくれた。社会に対する関心がないわけではなかったが、もっと、生きる意味とか愛とかに惹かれていた。そんな話を私がするので、哲学か芸術の道へ進むだろうと友だちは思ったと言う。