友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

満ち足りた日々であればいい

2013年02月11日 20時48分18秒 | Weblog

 叔父の葬儀がごく親しい人たちで行なわれた。いつもおっとりとした叔母は、やはり今日もおっとりとしていた。それは見守る私たちにとっては有り難く幸いなことだった。叔父は血のつながりのない私にも、「絵を教えたらいい」と絵画教室を与えてくれた。世話好きで、まず他人が幸せになるようにと気配りをする人だった。

 会社勤めを辞めて20数年も経てば、会社の関係者の参列はなく、近所の遊び友だちと思われる人たちが来てくださった。今日は友引というので、葬儀は少ないのか、八事の火葬場もゆったりとしていた。友引の日の葬儀ではご遺体の傍にお人形を置くというのも、恥ずかしいけれど今日初めて知った。雛人形は難を持っていってもらうための人形だけど、人は昔から人形を身代わりにしてきたのだ。

 ギリシア神話に、ミダス王が半獣神の賢者シレノスを捕らえて詰問する場面がある。王は、「人間にとって最も善いこと、最も優れたことは何か?」と問う。シレノスはじっと身じろぎもせずに口をつぐんでいた。けれど、王の執拗な問いに、けたたましい笑い声を上げ、吐き出すように答えた。

 「みじめな、つかの間の生を受けた者よ、偶然と労苦の子よ。聞かない方が御身にとって一番のためになることを、なぜ無理に私に言わせようとするのか?最も善いことは、御身にとってはまったく手が届かぬことだ。それは生まれなかったこと、存在しなかったこと、なにものでもないことなのだ。しかし、御身にとって次に善いこととは‥‥すぐに死ぬことだ」。

 人間にとって、一番よいことは生まれなかったことで、次によいことは死ぬことだという。古代ギリシア人は随分哲学的だ。確かに生まれなければいい。人は生きていれば、いろんな苦しみや悩みを抱え込む。それを嫌だと思えば、出来るだけ早くこの世におさらばしてしまえばいい。シレノスの言葉はごく当たり前のように思うけれど、しかし、現実の私たちは、すぐに死ぬことは出来ない。

 出来ないのであれば、一日一日を出来る限り楽しく充実したものにする以外にない。生きる価値とか生きる目的などと言わずに、一日一日が満ち足りた日々であればいい。どのように生きたとしても、「つかの間の生」であり、「偶然と労苦」の支配からは免れない。これはもう逆手にとって、「我が生」を生き抜くしかない。そう思えば、毎日は楽しいし、明日はきっと、もっとよいことが訪れるだろう。

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