ギリシア悲劇に出会ったのは高校生になってからだった。小学校の高学年からキリスト教に興味を持つようになって、西洋文化に関心を持つようになっていた。伊藤左千夫の『野菊の墓』や夏目漱石や志賀直哉の作品も読んだけれど、余り記憶に残っていない。『野菊の墓』は主人公の年齢が近いこともあってか、「初恋」を夢想する材料になっていた。ところが、ギリシア悲劇はスケールが大きくてビックリした。
悲劇というのは、運命のことかと思った。人は努力をするけれど、どんなに努力をしても逆らえない何物かがある。それが運命というものだろう。運命はどのようにして決まってくるのか、やはり、神様がお決めになるのか。全能の神とはいえ、何十億人もの運命を、その一人ひとり定めるのは大変なことだと思った。人はよい行いをしなくてはならない。洋の東西に関係なく、人々はそれを求めてきた。何物かにつき動かされて。
ソポクレスの『オイディプス王』は、父親コンプレックスの語源にもなっている。テーバイの王は生まれた子どもが王を殺すと神託を受ける。そこで生まれた子どもを山中に捨てさせた。やがて子どもは大きくなり、たまたま三叉路で王の戦車と出会う。道を譲れと馬を殺された彼は戦車の従者と王を殺してしまう。テーバイにやって来ると、町はスフィンクスという怪物に悩まされていた。怪物を退治した者を王に迎えるという。
今ではスフィンクスの謎は誰でも知っている。「朝は4つ足、昼は2本足、夜は3つ足で歩くものは何か」。オイディプスは「人間」と答えて、怪物を退治し、前王の后と結婚し王座に就いた。父親を殺害し、母親と性的関係を持ったのだ。彼も、父親である王も、母親である后も、命令で彼を山中に捨てた男も、登場人物は誰も悪くないのに恐ろしい結末になってしまう。日本の芝居でも運命のいたずらと言うものはいくらでもあるだろう。でも、なぜかスケールが違いように思った。
毎週木曜日のテレビドラマ『最高の離婚』は、まるで芝居を観ているようだ。瑛太、尾野真千子、真木よう子、綾野剛の4人のやり取りは面白い。一人ひとりの演技力が凄いのか、長いセリフと演技をよくこなしていると感心する。愛するとはどういうことなのか、ギリシア悲劇から2500年くらい経ても、人間は相変わらず悩み苦しんでいる。そういえば、ギリシア悲劇のひとつ『メディア』は、愛する夫を奪われ、我が子までも殺してしまう物語だった。