テニスの錦織圭選手が、全米オープンの男子シングルス準決勝で、ランキング1位の選手に打ち勝ち、決勝戦進出を決めた。その瞬間の映像がテレビで流されたけれど、本当に嬉しそうな顔だった。錦織選手は島根県松江市の出身で、小学校の卒業文集に「テニスで世界一になる」と書いている。それだけでもビックリするけれど、そのために13歳でアメリカにテニス留学したというから、さらにビックリした。
するとカミさんは、「結局お金があるか、ないかよ」と言う。確かに、アメリカに留学できるテニススクールがあるという情報を得ることも、知ったからといってそこに行かせることも、お金がある家庭でなければ不可能だろう。それでも、小学校を卒業したばかりの子どもが、「世界一になる」と決め、アメリカ留学を選択した勇気というか決意には本当に感心させられる。中学からテニス部だったカミさんは「絶対に決勝戦を見る」と張り切っている。
スポーツ競技は見世物みたいと思ってしまうが、こんな風にみんなが集まって、揉め事は全てスポーツで決着をつけられたらいいのにとは思う。賞金金額が何億円とかいうのだから、賞金の代わりに、紛争のタネを賭けてもいいではないか。きっとその方が多くの人がその試合に集中するだろう。けれど、試合に出る選手は負ければ殺されかねない。それでも戦争による犠牲に比べれば少なくてすむはずだ。けれど、ここにも死を比べる矛盾がある。
今晩は中秋の名月。果たして月は顔を出してくれるだろうか。ススキもお団子も用意できていないけど、お団子を喜ぶ子どもはもういないから、「いいか」と勝手に思っている。月を眺めて、酒を酌み交わす、そんな習慣は日本人だけだろうか。まだ、世界に電気がなくて、日が沈めばほとんどやることがなかった頃は、満月のような月明かりは人々に「夜もいいものだ」と思わせたことだろう。
そんな昔でも13歳くらいで、将来を決めていた子がいたのかも知れない。私も子どもの頃は「賢い子」と言われたが、そんな大きな志を持たず、ただクラーク博士の「少年よ 大志をいだけ」をよりどころに、幻想と妄想の世界から抜け出せないままに今日に至っている。器が違ったのだと分かっただけでもいいと、勝手なことをまた思う。