マンションの集会所で「敬老の集い」が開かれた。以前は65歳以上のお年寄りを対象に、お祝いの品を配っていたが、今では75歳以上を対象にしている。私の友だちも今年から招待状が届き、「まだそんな歳ではないから」と断ったと言う。私がこのマンションに入居したのは33歳の時で、40代の人が一番多く30代はその次だったと思う。老人の姿はなく、小さな子どもたちで溢れていた。
37年が経つと、見渡せば老人が目立つ。盆・正月の頃は駐車場にほとんど車がなかったのに、この頃では平日でさえ駐車している車の方が多い。そして、盆・正月は家を離れた子どもたちが帰って来るので、マンションの周りの駐車場を臨時に借りなければならない状態だ。ここを終の棲家と考えている人も多く、長い付き合いが家族以上に続いている。最近では、マンションの別の部屋を購入して、子どもたち家族が住むケースも増えている。
それでも、ひとり暮らしの人は増えていて、気の毒な気がする。人と話したり、人と触れたり、そういう機会のない人は難しい顔になっていくから不思議だ。やはり幼い子どもが傍にいると、人の顔は柔和になるようだ。満たされているか否か、人の表情は敏感に見せてしまう。白石一文さんは小説の中で、「幸せになりたいなどと思うな。しかし、幸せにすることならできる」という言い回しをよく使っていた。
若い作家に教えられるようでは情けないけれど、老人でも人を愛することは出来るはずだ。胆に命じておこう。ニュースを聞いていたら、65歳以上の高齢者の万引き数が19歳以下の人の数より多いという。「何となくお金を使うのが惜しかった」という理由らしい。バカかと思うけど、先への不安が無意識にさせてしまったのかも知れない。それに、孤独な老人には情緒不安な人も多いようだ。人をもっと愛すればきっと、心も豊かになるのにと思うのだが‥。
「古希過ぎて なお人肌が 恋しとは 恥ずかしいやら 寂しいやらや」
「老いらくの 恋のゆくへは 先細く 可愛くもあり 可哀相もあり」