「神は決して、越えられない試練を与えない」と先輩は言う。先輩はキリスト教徒ではないが、いつもいいことを言う。誰かが反論すると、「それは荷が重過ぎるのではない。努力が足りないのだ。努力もせずに、不幸だと嘆く者はますます不幸になる」と、まるで神様のお告げであるかのように言う。誰も不幸にはなりたくないし、進んで困難に立ち向かいたくない。けれど誰にでも波はやってくる。
テレビは御嶽山の爆発で亡くなった人々を報じている。それぞれがそれぞれに人生を生きてきたと痛感する。それがある時、突然に消えてしまう。誰が悪いわけではない。むしろ生きていたならきっとさらに素敵な人生を送っただろうと思う。自然は止めることが出来ない。止めることが出来る人の行為もなぜか止められない。人殺しは罰せられるのに、戦争は罰せられない。戦争裁判があったと言うけれど、それは第2次世界大戦からで、それまでは戦勝国が全てを支配した。
戦争裁判は戦勝国の勝手な裁判だと批判するが、それが当然だったので、第2次大戦では殺し合いを正当化するために行なわれた。学生の時、共産党系の学生が「戦争には侵略戦争のような悪い戦争と、自国を守るための正しい戦争がある」と言っていた。野坂参三議員が吉田茂首相に向って展開した論理だ。日本の軍部も欧米の支配から国を守る戦争だと主張していたのに、何を馬鹿なことを言うのか、それでは戦争を美化してしまうと思った。
キリスト教に興味を抱いていた私は、なぜアメリカはベトナムを攻撃するのかと、牧師に尋ねたことがある。アメリカには原始キリスト教への回帰を求め、ヨーロッパから理想の国を目指して移って来た人々がいる。良心的兵役拒否は確かにあったが、その代わりに戦争を支援する税金や課徴金を支払うことになったというから、反戦運動にはならなかったようだ。イラクやシリアへの空爆を阻止できるのはアメリカ国民でしかない。自国の軍隊が出動するのを止めることが出来るのはその国の国民だ。
香港では大勢の人々が座り込みを行なっている。それで願いが実現できるなら、先の見通しは明るい。新しい形で、政治のあり方を変える、その萌芽が生まれているわけだ。「神は決して、越えられない試練を与えない」。そう思って進むしかない。