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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ボランティア活動の原点

2014年10月19日 18時42分45秒 | Weblog

 他人のために何かをしたいと思う人はいる。そうしたボランティア活動が一般的になったのは、1995年の阪神淡路大震災からだという。あの日、寝ていて大きな揺れにビックリした。テレビをつけると関西で地震が起きたとあった。その後、地震の様子が次第に明らかにあり、凄まじい現場からの映像を目にすることになった。余りにも残酷な現場だったが、そこに若者たちが駆けつけ、被災した人々を助ける姿が報道され、「助けに行っていいんだ」という空気が生まれた。

 私の街でも、若いお母さんたちが役所に「何かお手伝いしたい」と申し入れた。せっかくの好意だったのに、対応した職員は「ボランティアの経験のない者が行って無駄」とつれなかった。せめてどんなことが出来るのか、いっしょに考えてくれればお母さんたちも申し出た意味があった。けれどもまだ、ボランティア活動について共に経験も情報も不足していた。

 今日の大和塾の市民講座は『国際ボランティアの原点』であった。ベトナム戦争はたくさんの難民を生み出した。その惨事を知った曹洞宗の若い僧侶たちが「曹洞宗ボランティア会」を立ち上げ、タイでカンボジア難民のキャンプを回った。欧米から難民キャンプの支援に来ていたボランティアから「やっと日本から人が来た」と皮肉られるくらい立ち遅れたものだった。しかも現地で何をしたらよいのか分からず困っていると、難民たちは「来てくれただけでいい」と言い、少ない食糧から食べ物や飲み物を分けてくれた。

 1269年、叡尊(真言律宗の祖)は多数の乞食やを前に、「文殊菩薩が生きた姿でこの地上に現れる時は、貧窮孤独の衆生の姿となって現れる。ここには大勢の貧窮孤独な人々がいる。この人たちこそ、慈悲心を起こさせるために地上に現れた文殊菩薩なのだ。生身の文殊様に食を施し、入浴していただき、背中の垢を流してさしあげよ」と説法したという。また、釜ケ崎でボランティア活動を続けているカトリック信徒を紹介し、「神は、一番貧しく小さくされている者を通して、全ての人を救う力を発揮される」「力は、弱っている時こそ発揮される」、神を文殊菩薩に置き換えれば叡尊と同じことを言っていると話す。

 「助けるつもりが助けられた」ことから、「共に生き、共に学ぶ」市民活動の原点を知ったという。相手のことをよく知ること、自己満足にならないように見つめ点検すること、それでもよかれという到達点はないと結ぶ。ボランティアは主人公ではなく、黒子にすぎないし、そうでなければならない。こうした活動がもっと増えれば、世の中はもっと住みやすく豊になるだろう。

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