「義を見てさざるは勇無きなり」。子どもの頃に見た時代劇に、仇討しようとするが、相手が大勢なので勝ち目はない。その時、こう叫んでバッタバッタと倒していく侍がいた。そうではなくて、ヤクザ同士のケンカだったのかも知れないが、強い側に立たずに、弱い者に味方する。これが真の男の生き方などと子どもの頃は思い込んでいた。
「義を見てせざるは勇無きなり」は『論語』に出てくる言葉で、「人の道として当然おこなうべきことと知りながら、これを実行しないのは勇気が無いというものである」(広辞苑)と高校生で知った。ところがなぜか、大人たちは目を瞑って見ようとしない。道で倒れた人がいても知らぬふりして通り過ぎる。困っている人がいてもかかわることを避ける。
「余分なことはしない」と大人は言う。放っておけばいつか誰かが手を出すだろう。何もあなたがしなくても誰かがすると。そういう声が聞こえる。近畿財務局の職員が自殺した。森友学園との窓口になっていたようだ。なぜ、自殺したのか、本当のことは亡くなった彼にしか分からない。彼は「義を見てせざるは勇無きなり」と思ったのかも知れないし、小説にあるように権力に自殺させられたのかも知れない。
公務員に限らず会社員も、上の人に気を遣う。出世するためには無キズでいるだけではダメだ。上に評価してもらわなければ出世は出来ない。上に上がれば上がるほど権限は大きくなるから、自分がしたいことが実現できる。だからどこでも、組織にいる者は「忖度」している。人が生きていくための知恵だから、アメリカもロシアも中国も日本も、いや「忖度」が存在しない国など無いだろう。
逆に、だからこそ孔子は、「義を見てせざるは勇無きなり」と説いたと思う。自分を律することは難しいが、自分の価値観や生き方をしっかり持てば、行動する勇気も生まれる。何よりも「義」が見えてくる。そういう人にみんながなれば、不正義など存在しなくなると孔子は考えたと思う。