友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

葬儀の在り方を考えた

2018年03月24日 18時01分32秒 | Weblog

  立て続けに葬儀に参列して、私自身の葬儀の在り方を考えた。私は子どもたちには、「遺骨を拾ってくるとその処置に困るから、拾わないように」と伝えてある。それは、墓を無くし、仏壇を持たない私が、自分の終い方を実現するためだ。しかし、実際に火葬場で遺骨を拾わないですむのかと不安だったが、火葬場の人は「事前に言っていただければ対処します」と言われた。

 葬儀会社の人も、「今は、いろんな形があります。どんなことでもご相談ください」と言う。海に散骨する人、樹木葬の人、確かにこれまでとは異なる方式が生まれてきている。私は火葬場で、棺に入った遺体が見事なまでに骨だけになって出てくるのを見て、「これで充分だ」と思った。何もかもが焼き尽くされたのだから、故人の痕跡も一切「無」に帰すべきだと。

 病院で死亡が確認されたなら、病院から葬儀会社を紹介してもらい、あるいは事前に相談できる葬儀会社を決めておいて、その葬儀場に安置させてもらう。そこに家族が集まり、音楽を流すことが出来るなら、私が好きだったCDがあるので、それを流しながら、私の小さい時から今日に至るまでのアルバムを見て、ああでもない、こうでもない、と思い出を語って時を過ごして欲しい。

 もちろんお酒を飲み、フランス料理でもイタリア料理でも好きものを食べ、孫たちにジイジの話を聞かせてやって欲しい。私自身は自分がどんな人なのか分からないが、周りの人ならいろいろと見えていたことだろう。話が充分に盛り上がったら、解散して、翌日に出棺となる手順だろう。申し訳ないが再び集まって、火葬場へ出かけ、くれぐれも言っておくが、骨は拾わずに帰って来て欲しい。

 私が年賀状を送っている住所録の人に、私が亡くなったことを記し、感謝の意を伝えて欲しい。後、私に関するものは全て、捨てるか燃やして欲しい。痕跡は残しておきたくない。これで私は充分満足だった人生を閉じることが出来ると思う。

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