友々素敵

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「学校でもマナー教えて」を考える

2018年03月02日 17時22分46秒 | Weblog

  今朝の中日新聞の投書欄『発言』(ヤング)に、興味深い見出しがあった。「学校でもマナー教えて」という18歳の高校生の投書である。「礼儀、マナー、一般常識は個人の価値観や考え方の差異を保ちながらも円滑にコミュニケーションを取るための土台」「親や地域の子どもへの教育力が低下しているとされる時代だけに、私はやはり学校でしか教えられない気がしている」と。

 この文章から、彼女は礼儀もマナーも一般常識も身に付けていると思う。しかし、周りを見ると心配なことが多いのだろう。人は社会に出るまでに、礼儀やマナーや一般常識を身に付けていく。程度に差があるのは仕方のないことで、年齢を重ねるうちに取捨選択しながら身に付けていく事柄で、学校で教えることではない。

 人は生まれて、周りの親や年上の人たちの言葉や振舞いを見ながら学習していく。親が「おはよう」と言葉を交わせば、人と会う時は挨拶をすることを学ぶ。親が食事をしながらスマホをしていれば、そういうものだと覚えていく。電車に乗る時、我先に乗り込み、座席を占拠する大人を見れば子どもだってそうする。親が席を必要としている人に譲るなら、子どもはやはり真似をする。礼儀やマナーは親が手本を示すことで子は学習していく。

 一般常識が何を指しているのか定かではないが、時代によっても違うし、彼女も指摘するように「個人の価値観や考え方」に負うところが大きいので、周りを見ながら学習していくことになるが、例えばテレビなどではとんでもない常識が通用しているし、その団体の常識が世間では非常識ということもある。何が大事なのかは、自らが考える。それが一番の常識の素である。

 「親や地域の教育力が低下」と切らずに、その後に「しているとされる時代」と書いているように、そんなウワサに惑わされる人は多い。親の教育力は高くなっているが、子どもに価値観を押し付けなくなっているし、他人が子どもを叱ったりすると逆恨みをするから、全体に「疎遠な社会」になっているのが現状だ。礼儀やマナーや一般常識の心配は、この「疎遠な社会」にある気がする。

 

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