友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

反体制と判官びいき

2018年05月14日 18時34分32秒 | Weblog

  夏の日差しなのに風が強く吹いていて、ルーフバルコニーには出られなかった。満開のバラが強風に煽られ、倒れそうなくらい揺れている。昨夜、長女が小3の娘を連れてやってきた。食事の後、ケーキを食べながら談笑する。小3の孫娘はこのところ身体が大きくなったばかりか、垣間見せるしぐさが大人びてきた。長女の小学校時代のアルバムを見せると、食い入るように見ていたが、その表情も長女に似ている。

 小3の孫娘は長女に、長女はカミさんに、「いつもありがとう」と言った。3人を眺めてみると、共通するものがある気がする。それが何とまでは分析できないが、血が通っているのだから当然だろう。次女の保育園の時からの友だちは、考え方や感性が私と似ているが、彼女の方が何十倍も物事に積極的である。先の選挙でウグイスをやってもらった時、ちょうど遠方に住む母親から電話があった。「いま、選挙の応援をしているの」と彼女が伝えると、「エライねえ」とお母さんは言う。

 このポジティブさを娘の彼女は受け継いでいる。決して否定的に考えず、いつも前向きだ。そんな彼女が「私はいつも反体制だった」と言う。私たちの世代の、物事を考えるグループに共通する価値観である。「反体制」は文字通り、体制に反対する政府批判はあるだろうが、私はそこに「判官びいき」があるように思う。少数派というか体制に属せない人々に肩入れしたい気持ちである。

 義経や西郷が本当はどういう人だったのか分からないが、体制から弾き飛ばされたということから、なんとなく応援したくなる。それが戦後の民主主義を支えるエネルギーになってきたように思う。少数派がこの世に存在しないとなると、それは恐ろしい社会だろう。「多様な社会」と言いながら、絶対的な多数しか認めないのは矛盾である。こういう私たちの価値観が子どもたちにどのような影響を与え、今の社会の背骨を担っているのか、世界はそんな風に、子どもたちや孫たちへと課題を与えていくのだろう。

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