友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

親子の会話

2018年05月25日 18時58分27秒 | Weblog

  ゴルフの反省会には、プレイヤーではない私も参加する。「いつもご招待いただきまして」と笑わせるつもりで言ったのに、「ご招待していませんよ。あくまでも割り勘です」と茶化された。勝った人が奢るというルールのようだが、詳しいことは知らない、と言うより関心がない。友だちの輪に入って、ワイワイと飲めればそれでいい。

 私の隣りに座った先輩の長女のダンナが、「ジイジの家に行っても、ジイジはテレビの番ばかりで、話しがないとヨメが言ってた」と言う。娘と父親はどんな話が出来るのだろう。我が身を振り返ってみても、娘が来た時、やっぱり私も何も話していない気がする。娘に「どんな具合だね?」と聞くことも野暮な気がするし、母親と娘のようにあれこれと話す話題が見つからない。

 義理の息子になる長女や次女のダンナとも、何を話すかと考えると特に無いように思う。父親が私に何かを話したかと思い出してみるが、高校3年で亡くなったためか、父親と会話をした覚えは余りない。母親とも記憶に残るような会話はない。家族というのは、意外に会話が無いものなのかも知れない。生活を共にしているだけで充分な関係なのだろう。

 しかし、カミさんの父親とは時々食事を一緒にしたので、そんな時はお酒が仲立ちするのか、義父はよく話してくれた。若い頃、教師になりたかったこと、呉服屋に奉公させられたこと、結核で家に戻ったこと、何もしないでは生活できないから警察官の試験を受けたこと、戦後の経済警察(?)がどんなに恵まれていたか、なぜ陶器作りに興味を持ったのか、義父は字がうまかったが、書に関心を持った理由など、次から次へと話してくれた。

 義父がどんな思いで生きて来たのか、ひょっとすると子どもたちよりも義理の息子の私の方がよく知っているかも知れない。実の親子の方が気持ちを伝えるのは難しいこともあるだろう。「ジイジはテレビばっかり見ている」と言わずに、子どもの方から話しかけてくれれば、意外に話せるのではないだろうか。

コメント
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