雨が止んだと思ったら、風が強くなった。北風が庭の鉢植えの草木をなぎ倒していく。重いアルミサッシュの窓枠が風を遮ってかすかに震えている。秋から冬へ、季節が変わっていく。これからこのように強い北風が吹きつける日々が続いていく。荒れ狂う風の様子を眺めていると、寒さのためなのかなんとなく寂しくなる。秋は人恋しくなる季節だ。
この強風に煽られて金木犀の花が吹き飛ばされていった。金木犀の香りが窓ガラスの隙間から部屋の中に流れ込んで来る。金木犀の香りはどうしてこんなにさわやかなのだろう。花の中には強い匂いのものもあるし、全く匂いのないものもある。植物が匂いを放つのは、虫を集めて受粉させるためなのだろうが、匂いの差は何か意味があるのだろうか。虫の目は複眼でよく見えるというか、感知するように出来ているという話を聞いたことがあるが、匂いをかぎ分ける機能はどんなことに役立っているのだろう。
虫は花から花へと蜜を求めて飛び交うが、この強風の中では草木の中でじっとしているだろう。虫よりも進化している動物もほとんどは食べるために生きている。もっとも進化した霊長類でさえ生きている時間のほとんどを食べることに使っているそうだ。人間は食べ物を自ら作り蓄えることが出来るようになって、食べることから解放された。生きるために食べるというよりも、食べることを楽しむようになった。そう書きながら、けれども現実には食べることすらできない地域がある。片方では食べ残すことが文化になっている地域もあるのだから、人間の社会は動物が持っている平等性を無くした社会だ。
人の感性も大きな差がある。病気の人や障害のある人を見ると、放って置けなくて自然と身体が動く人もいれば、気味悪がって近づくことも出来ない人もいる。男と女でも感性が違うような気がする。女の人はたとえば部屋の飾り付けや料理に気を配る。明らかに夫や子どもたちに喜んでもらいたいためだ。ところが男はそんなことに全く気がつかない。女の人の感性が自分よりも他の人のために働こうとするのに、男の感性は自己中心であるように感じる。それは女の性と男の性の違いなのだろうか。
同じ人間でありながら、人間は生きている時代や地域によって生き方が違うし、同じ空間で生きていながら男女によって感性が違うという誠にややこしい存在だ。しかし、だからこそ文学が科学と同じように成り立つのかもしれない。
この強風に煽られて金木犀の花が吹き飛ばされていった。金木犀の香りが窓ガラスの隙間から部屋の中に流れ込んで来る。金木犀の香りはどうしてこんなにさわやかなのだろう。花の中には強い匂いのものもあるし、全く匂いのないものもある。植物が匂いを放つのは、虫を集めて受粉させるためなのだろうが、匂いの差は何か意味があるのだろうか。虫の目は複眼でよく見えるというか、感知するように出来ているという話を聞いたことがあるが、匂いをかぎ分ける機能はどんなことに役立っているのだろう。
虫は花から花へと蜜を求めて飛び交うが、この強風の中では草木の中でじっとしているだろう。虫よりも進化している動物もほとんどは食べるために生きている。もっとも進化した霊長類でさえ生きている時間のほとんどを食べることに使っているそうだ。人間は食べ物を自ら作り蓄えることが出来るようになって、食べることから解放された。生きるために食べるというよりも、食べることを楽しむようになった。そう書きながら、けれども現実には食べることすらできない地域がある。片方では食べ残すことが文化になっている地域もあるのだから、人間の社会は動物が持っている平等性を無くした社会だ。
人の感性も大きな差がある。病気の人や障害のある人を見ると、放って置けなくて自然と身体が動く人もいれば、気味悪がって近づくことも出来ない人もいる。男と女でも感性が違うような気がする。女の人はたとえば部屋の飾り付けや料理に気を配る。明らかに夫や子どもたちに喜んでもらいたいためだ。ところが男はそんなことに全く気がつかない。女の人の感性が自分よりも他の人のために働こうとするのに、男の感性は自己中心であるように感じる。それは女の性と男の性の違いなのだろうか。
同じ人間でありながら、人間は生きている時代や地域によって生き方が違うし、同じ空間で生きていながら男女によって感性が違うという誠にややこしい存在だ。しかし、だからこそ文学が科学と同じように成り立つのかもしれない。