友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

オバマ氏の就任演説と「ワイエス展」

2009年01月21日 22時56分25秒 | Weblog
 オバマさんが大統領に就任するというので、朝からその様子を放映する番組が繰り返されていた。そうした番組を見ていると、オバマさんへの期待は想像を絶するほど大きいものがあるとわかる。確かにアメリカの大統領はアメリカだけに留まらない。その一挙一動は大統領が意識するかしないかにかかわらず、世界の国々に影響を与える。日本の首相とは残念ながら比重が違うのだ。

 だから、オバマさんは重圧に負けそうかなと思ったが、意外にも彼は落ち着いていたし、それだけではなく意欲的でもあった。彼の演説を同時通訳で聴いたけれど、夜になって報道される就任演説のテロップを見ると、同時通訳ではわかりづらかったことが言葉として理解でき、さすがに風格があるとさえ感じた。オバマさんの選挙戦での演説集とともにこの就任演説もきっと日本ではかなり売れるだろう。

 オバマさんの演説は27歳のスピーチライターが書いたものだと報道されていたが、ライターだけならあんな文章は出来ないだろう。就任演説の時も、選挙の時も、オバマさんは原稿を見ることがない。名文句だなと思わせるフレーズはライターのものであっても、ライターとオバマさんの共同作業がなければ、あんなにも堂々と演説は出来ないだろう。言葉の一つひとつは英語の専門家に任せるとしても、アメリカ独立宣言やリーンカー氏やケネディ氏の就任演説にも匹敵するものではないかと思った。

 演説の中身については明日の朝刊に全文が載るように期待しよう。中身について触れるのはそれからにしたいと思う。式典を見ていると、日本では考えられないくらい参加者はあちらこちらを向いていた。君が代を歌わなかったと東京都は教員を処罰したけれど、そんなことよりもいかに気持ちが大事かと、式典を見ていてそう思った。一見無秩序に見えるけれど、強制されなくても心が一つになることの方がはるかに尊いし心強い。

 さて今日、私は友だちに誘われて、県立美術館で開かれているアメリカの画家、アンドリュー・ワイエスの作品展を見てきた。ワイエスは私がもっとも好きな画家だ。ダリは最高の画家だと思っているけれど、ワイエスは決してダリのようなシュールレアリズムの画家ではないのに、私にはどうしてもシュールレアリスムの画家のように見えてしまう。単なる写実ならば写真の方が優れているだろうけれど、ワイエスが写実的に描く世界は写真では写せない写実なのだ。だからこそ、超現実なのだと私は思う。

 3月8日まで開催されているのだから、もう一度ゆっくりと作品を見てみたい。
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葬儀の手伝いがいいのではないか

2009年01月20日 22時20分54秒 | Weblog
 NPO法人「おたすけ」の初寄りは、もちろん仕事の話が第一だが、時々脱線して話が飛ぶことがある。「おたすけ」の当面の課題である井戸掘りの技術面・装備面をどのようにアップさせるかについて話し合った。技術も装備も、それほどお金をかけずにアップさせることができるようだ。経験と研究が物をいう。タダで年を重ねていない。もう少し、暖かくなってきたなら、考案した装備と方法で実際に試してみようということになった。

 お正月休みに老人ホームを見てきた人がいて、「ああいう施設はどうして明るいところと暗いところがあるのだろうか」と言う。「ウチのは自宅をたたんで、老人ホームに入るつもりでいるが、私は家に愛着があり、出来れば家で最後を送りたい。子どもの世話にならず、老人だけでは暮らせんものなのかな」と続く。「私が見たテレビでは、何人かの人が自分の家や土地を処分して、そのお金を元にして共同生活をするものだった。それなら資金もできるのではないか」。

 「気心が知れている仲間であることが大事だろうね。それと、気心が知れているからと言ってもプライバシーが守られる部分がないと続かないのではないか。女の人は比較的共同生活に早く慣れるが、男はなかなかできない。デイサービスなんか見ていても、女の人は仲良くやっているのに、男はその輪に入りきれない。ある程度、個人を尊重しなおかつ共同生活できる仕組みが要るね」。

 「グループホームのようなものではなくて、何軒かの家庭が共同で介護士やヘルパーを雇用することは出来ないのかな。それぞれが今まで住んできた家で過ごしながら、同じ人にお世話になることはどうなのかな」。「それは出来ないことではないけれど、それならば今のシステムと変わらない。昔なら、働き終わればそれでもう死を迎えたのに、今は働き終わってからの第2の人生が長いから、これをどうしていくかということに問題がある。要するに、子どもたちや次の世代の人たちに迷惑にならないようにすることが第1であるし、第2には私たち自身も楽しんで生きていられることだと思う」。

 「日本人はまだ子どもに期待しているところがあるのではないか?財産を残してやりたいと親は考えるが、それは自分の面倒をみて欲しいという気持ちからではないか?けれども、子どもにしてみれば、ありがた迷惑でしかないと思う」「葬儀についても、どうしてあんなにお金をかけるかと言えば、葬儀屋さんから『あなたのところならこれくらいです』と言われ、とにかく亡くなった人を抱えて何もわからないから、言われるままにせざるを得ない」。「でも最近ではそういう見栄を張ることを止めようと言う人たちも出てきた」。

 「それ、いいですね。私たちなら一切合財30万円で葬儀をします!をキャッチフレーズにして葬式アドバイザーをNPOでやってもいいんじゃない。本当に困っている人はいますよ。ぜひ、NPOでこれからの葬式を提案したなら、これ仕事になりますよ」。「お寺さんは葬式仏教になってしまっているし、本当の意味で死者を送ってあげる手伝いをする仕事があってもいいと思うね」。「差し当たって、こういう葬儀にして欲しいと遺言を残しておかないとダメだね。それが残された家族のためだよね」。などと続いた。
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二日酔いか?

2009年01月19日 21時58分48秒 | Weblog
 昨日は、シュロス弦楽4重奏団の第5回ファミリーコンサートが行なわれた。会場となったのは、知人のギャラリーで、40人ほどしか入れないので3回に分けて行われた。私が出かけたのはその3回目の夕方4時半からだったが、30人くらいの来場者があったと思う。CDを作るための録音装置をセットしていた人も、聴きに着てくださった人たちも、知り合いが多く、アットホームな雰囲気だった。

 ギャラリーの主とはなぜか波長が合って、彼女から新婚旅行の話も聞いたことがある。ダンナさんは私より一つだけ年下だから、結婚もそんなに離れているとは思えないが、新婚旅行はヨーロッパだったそうだからかなり先を行っていた。そこで見たフランスやイタリヤの印象などを話してくれたのだ。ギャラリーは夫婦の夢だったようで、絵画などの展示のほかにも、この日のような演奏会やパーティーや講演会など、幅広く使ってもらえるようにしたと言う。

 おっとりとした話し方や雰囲気もそうだけれど、顔も切れ長の目で、音楽好きなところなど、私の中学の時の同級生に似ている。同級生は豊かな才能の持ち主だったけれど、その才能を開花させずに専業主婦に納まってしまった。私は残念な気がしてならないが、きっと彼女は彼女なりに豊かな人生を歩いてきたのだろう。このギャラリーの主も専業主婦の傍ら、ピアノを教えていたし、長く読書クラブに所属してみえたと思う。今も続けているのかもしれない。

 狭い部屋での演奏会だったから、奏者との距離が1メートルほどしかなく、ちょっと聞きづらかった。演奏会の慣わしなのだろうけれど、女性は肌を露にした服装なので、見つめることは失礼な気がして困った。勝手の違いは奏者も同じなのか、はじめの出だしでは演奏が揃わず、どうなるかと心配させられた。ファミリーコンサートは定期演奏会と違ってポピュラーな曲目が多いが、今回はイントロクイズまであって、来場者は結構楽しかったようだ。

 演奏会の後、いつもの誕生会のメンバーで中華料理を食べに行った。カミさんが孫娘を塾に送っていったので、お酒が飲めなかったことを気にした友だちが、「ウチで飲みませんか」と誘ってくれた。飲むことはみんな好きだから、また上がり込んで宴会が続いた。中華料理店ではビールと焼酎をいただき、友だちの家でさらにハワイトリッカーとワインを飲んだ。私はお酒をみんなで飲むことは好きだけれど、べらぼうにお酒に強いわけではないので、かなり酔っ払った。途中で席を立って一人で帰ってきたようだが、その経緯は全く覚えていない。

 とにかく家に帰り、ブログを立ち上げなくてはと思っていた。今朝、パソコンを見ると確かにブログは立ち上げてあった。カミさんが言うにはフトンもきちんと敷き、服も着替えて寝ていたようだが、それも全く覚えていない。今朝、いつものように起きてもまだ身体にお酒が残っているようで、ボーとしていた。こんなにお酒を飲むことは最近ではなかったのに、どうしてこうなってしまったのか、わかっている。
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大和塾第11回講座『見えなくて見えてくるもの』

2009年01月18日 22時52分04秒 | Weblog
 『見えなくて見えてくるもの』が今回の題目だった。昨日は、大和塾の第11回市民講座。講師を引き受けてくださったのは、視覚障害者のラテンバンド「アンサンブル・アミー」の事務局長を務める山田弘さんだ。山田さんは小学校5年の時、網膜剥離で失明した。視覚障害の方の多くは針・灸・マッサージ師の道を歩むけれど、それがいやだった山田さんは大学に進んだ。学校の先生になりたかったが、当時は障害のある人を教員に採用する道は開けていなかったので、自宅で学習塾を開いた。

 目が見えない、耳が聞こえない、そういう世界はどんなものなのか。視覚障害のある人や聴覚障害のある人とどのように接すればいいのか、戸惑うことが多い。講師をお願いに出かけた時、山田さんにそんな話をした。山田さんは「目が見えないことは不自由ではあるが、悲しいことではないし、身体全体からみれば単に一部でしかない」と言う。
 
 「皆さん、目を閉じてください」と言うので、しばらく会場は皆さん耳だけを集中させて話を聞こうとする。「普段ならば聞こえているにもかかわらず、聞こうとしなかったものが聞こえてくることに気が付きませんか」。なるほど、目で追うので聞くことに集中できなかったが、気が付かないことが聞こえる。山田さんは言う「別のもう一つの世界が加わった。そう考えるようにしている」と。ポジティブに受け止められることは、新しい世界を広げることになる。山田さんは山登りが好きだ。視覚ハンディキャップテニスもするし、社交ダンスも楽しんでいる。スキーだって、ジョギングだってする。身体を鍛えているのは好きな歌を歌いたいからでもある。

 「人は違いを優劣で考えようとする。速く走る人と遅い人、テストができる人とできない人。速く走れてもテストの成績は悪い人もいれば逆の人もいる。どっちが悪い、どっちが良いではなくて、個人差なのですね。個人差というものは才能だと考えればいい。笑顔が可愛いのも才能です。私は点字が読めますが、皆さんはどうですか、読めますか。読めないから劣っているわけではないでしょう」。そんなことを話して爆笑を誘った。そして、金子みすずの詩『私と小鳥と鈴と』を朗読し、これを「見えるあなたと見えない私」に置き換え、「みんな違って、みんないい」と結んだ。

 講演の前の雑談で、「多くの人は目で見ての第一印象で、相手を判断しますが、山田さんはこの人はいい人か悪い人かをどうやって判断するのですか」と聞いた。山田さんは笑って「声と話し方ですね」と言う。「声と話し方はごまかしができませんから。でも中には最初の印象と違う人もいます」。「ええ、それは私たちも同じですね。長く付き合ってみて、わかることがありますから。でも、やはりインスピレーションというものは大事なのですね」と私。
山田さんを家まで送っていって、「声と話し方」でその人がわかると言ったことは正解だとわかった。山田さんの奥さんは美しいく控えめで穏やかな人だったからだ。
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親子でも男同士

2009年01月17日 11時05分30秒 | Weblog
 私は自分の父親を尊敬しているし、カミさんの父親も尊敬している。もっと正直に言えば、カミさんの父親の方が身近に感じている。私の父が亡くなったのは私が18歳の時だから、18年間暮らしたことになるが、カミさんの父親とは24歳で結婚して、義父が亡くなったのは42歳の時だったから同じく18年間親子として付き合ってもらった。

 子どもの時は親子だから当然のことだが子どもの扱いだった。男同士と感じることがあったのは、高校生になってからだ。カミさんの父親とは親子であったけれど、初めから男同士でもあった。義父からすれば私はへなちょこ野郎だったに違いない。腕力もなければ気概もないが、人好しだからまあよいか程度だったであろう。私は自分の両親がいないこともあり、カミさんの両親に子どものように甘えてしまっていた。

 義父は私がとんでもないことをした時も、小言も不満も言わなかった。おそらくどんなことになるのかと気が気でなかったはずだが、何も言わずに見守っていてくれた。生活が安定してきて、両親を連れて旅行に出られるようになった時、喜んで誘いを受けてくれた。義父と一緒に石の収集に出かけたこともあった。義父にとってなんとも不甲斐ない娘婿だったかもしれないが、もう少し生きていて、この娘婿もまんざらではないなと評価していただきたかった。

 義父と私の父親と似ているところは何かと考えた。何かで世に出たいというか、自分の生き甲斐のようなものを見出したいという思いが強いところだろう。私の父は、小学校の教員をしていたが、姉から聞くところでは母に学資を出してもらって師範を出たということらしい。母がどうして父と知り合ったのか知らないが、代用教員だった父は小説家になりたくて実家の材木屋を飛び出していたようだ。そんな父の面倒を見ていたのが2歳年上の母だった。

 父は背の高い人ではなかったけれど、色白く歌舞伎役者のように面長の顔で、母の実家に父が行くと、村の人たちが振り返るほど評判だったと、これも姉の話だ。私の知る父は、いつも一人で本を読んでいるか、スケッチブックに小さな絵を描いていた。父に怒られたことは一度もない。私が高校生になった頃から、私を大人として扱ってくれたように思う。生徒会長に立候補する時や、生徒会で取り組む課題や、学校から禁止されて仕方なく自分たちで新聞を発行した時など、男同士のように後押ししてくれた。

 今朝、夢を見た。人が来るというので障子を張り替えた。母と障子だったか家具だったかを移動していた。その際に障子を少し傷つけた。兄に代わったがやはり障子を傷つけた。父に代わったが母や兄よりももっと傷つけた。「やっぱり我が家の血だ」と私が笑うと、父は怒って障子を破り始めた。私が「そんなにしなくても」と父を止めた途端、父はひっくり返ってしまった。私が笑って手を出すと、父は怒って私に蹴りを入れてきた。父は意外に短気な人だったのだ。夢だったけれど、実際に父はカッとなる方だったような気がする。

 カミさんの父親にも私の父にも、生きている時に「いい息子(婿)だ」と言ってもらえるようなことを何一つしていない。それがちょっと悔やまれるが、まあ人生はそんなものだと言ってもらえそうな気もしている。
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「この男は偉いヤツだ」

2009年01月16日 22時10分56秒 | Weblog
 東大紛争で思い出すことがもう一つある。カミさんの父親は警察官で、実際に泥棒も捕まえたことがあるガッツのある人だった。一緒に食事をした時にはよく自分の生い立ちなどを話してくれた。本当は学校の先生になりたかったが、家の事情で進学できずに呉服屋に丁稚奉公に出たそうだ。それなら、店を持ってやろうと働いたけれど、病気になり実家に戻った。そこで警察官の募集を知り、結局は警察官の道を歩くことになった。

 兵隊にも徴集されたが、若くなかったから戦地に行かずに終戦となったと聞いた。「戦後の経済警察は面白かった」と言う。規制違反の取締りで、「どれだけただ酒を飲んだかわからない」とも言っていた。お酒が入ると本音が出る人で、悪いことをした人が話題になると「こんなヤツは殺してしまえ」と言ってはばからなかった。そんな義父がテレビに映った東大全共闘の山本義隆氏を「この男は偉いヤツだ」と言った。どうしてそう思ったのかわからないが、後日、古本屋で山本氏の『知性の反乱』を見つけて思わず買ってしまった。

 義父の話を聞いていて、警察と軍隊の違いがわかった。警察はあくまで治安維持の機関だ。たとえ時の政府が悪政であろうと現状を維持することに全力を尽くすように叩き込まれている。これに対して軍隊は、たとえば2.26事件のように、現状に対する不満が爆発すれば政府に楯突く。特に日本やタイのように王国ならば、御旗が有効に作用する。田母神前幕僚長は「政府見解は言論統制だ」と平気で言えるが、警察官僚は決して政府批判はしない。

 義父はおそらく矛盾した社会の中で生きていたばかりでなく、その社会を支える側にいたのだから、腹の立つことも多くあったのだと思う。警察の組織が変わり、義父のように熱い思いはあっても学歴がないとトップになれないことが明らかになった。何人かの部下を抱える立場にあったけれど、それは義父が思い描いていた地位ではなかったのだろう。多分そんな時に陶芸に出会ったのではないだろうか。もともと器用な人だったし、出会った陶芸家にも恵まれ、勤務の傍らで陶芸に打ち込むようになった。

 退職する頃だったか、家を建て、庭に陶芸の窯を作り、焼き物に専念するようになった。陶芸の作品を扱う画廊で作品展も開いた。作品の評価も高く、これからさらに腕を磨き、「陶芸家を目指す」意気に燃えていたが、ガンが義父の身体を冒し始めていた。やりたいことをやってきた点では義父も満足な生涯であったと思う。義父が山本氏を「偉いヤツ」と言ったのは、何かに向かって突き進む男気を見て取ったのではないだろうか。

 警察官だった義父が、機動隊と対峙した全共闘の議長を評価したことが私には理解できなかったけれど、テレビドラマの中で、全共闘の学生が機動隊に「われわれの敵は皆さんではないし、皆さんの敵はわれわれではない」といった内容の演説をしていて、機動隊員はうなずくことはなかったけれど聞き入っている様子が映し出されていた。義父はデモ隊にはあからさまな嫌悪を見せたのに、なぜ山本氏を別個に見ていたのだろう。
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40年前の東大安田講堂の攻防

2009年01月15日 20時14分11秒 | Weblog
 昨夜、カミさんは先に寝てしまったので、また何も考えずにテレビをつけた。東大安田講堂をめぐる学生と機動隊の攻防が報じられていた。途中からだったからよくわからなかったけれど、はじめ見た時は生中継の部分だったので、40年目の特集なのかと思っていた。ところが俳優の陣内孝則さんが出ている。記録報道と映画との組み合わせで作り上げた『東大落城』ドラマだった。

 機動隊の指揮者は『浅間山荘事件』でも指揮をとった人物だが、講堂内に立てこもった学生の中にいたのは誰だったのだろうか、初めから見ていないことを後悔した。東大全共闘の議長は山本義隆氏だったけれど、安田講堂の攻防戦前に逮捕状が出たことから、彼は彼自身の意志ではなく全共闘の総意で東大を離れて地下に潜伏したから、実際の攻防戦での責任者となったのは確か今井澄氏だった。

 山本氏も今井氏も私よりも年上の方だから、呼び捨てにはできず、「さん」付けがよいのだろうが、なんとなく私は軽々しく「さん」と呼べないでいる。東大紛争が起きたのは1968年(昭和43年)の1月が発端だった。医学部問題から学生ストが始まり、その処分がいい加減だったことからさらに全学部の学生ストに発展していった。東大全学共闘会議が結成され、続いて東大助手共闘会議も結成された。

 私は大学を卒業し、高校の教員となっていた。テレビがやっていた1月18日・19日のいわゆる「安田講堂攻防戦」は、どこかの飲み屋で見ていたような記憶だ。まるで野球でも見るように多くの人が見ていたが、私もその一人だった。私がまだ学生であったなら、安田講堂へ駆けつけないとしても、御茶ノ水や本郷や神田で行なわれた学生デモに参加していたかもしれない。今なら、あんなことをしてもどうなるものでもないと言い切れるけれど、権力の構造が変わるとは思わないが何かが変わるように期待していた。

 私は、自分たちの世代は「谷間世代」だという思いを強く持った。私たちの上の世代は「安保闘争」を、そして私たちの下の世代は「大学紛争」を体験している。ところが自分は学ぶべき実体験が何もない。そのことがずっーと引っかかっていた。「安保闘争」についてはいろんな人が総括し、そこから新たな道筋も生まれてきたが、その頂点にあった「大学紛争」はなぜか当事者たちからの発言がない。日本の素粒子論の先駆者となると思われた山本義隆氏は予備校の教師を務めているが、その後「事件」には全く触れていない。

 安田講堂の責任者となった今井澄氏は医者となり、諏訪中央病院の院長として赤字病院を再建した。衆議院議員にまでなったが、確か亡くなった。東大全共闘と対立していた共産党系の学生だった町村信考氏は、経済産業省は入省し、後に衆議院議員となり、小泉内閣で外務大臣を、福田内閣では内閣官房長官を務めている。東大と並んで当時、有名だった日大全共闘の議長、秋田明大氏は故郷で自動車関係の仕事をしているそうだ。

 自分の人生は何だったのか。そう問う年齢になってきた。誰もが皆、悔いのない人生を歩んでいることだけは確かだろうが、自己の体験から人に語るものを持っている人はそれを語って欲しいと思う。
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時代のうねりはあるが‥

2009年01月14日 19時03分29秒 | Weblog
 総額2兆円の定額給付金を盛り込んだ第2次補正予算案が昨夜、衆議院本会議で自民・公明党による賛成多数で可決された。自民党からは渡辺喜美元行政改革担当相と松浪健太内閣府政務官が、採決時に退席して「造反」した。渡辺さんは以前から、「私にも覚悟がある」と公言し、麻生内閣に政策の変更を訴えていたから、マスコミも「信念を貫いた」と受け止めている。自民党幹部は渡辺さんに続く議員はいないとみていただけに、松波さんの「造反」は思いがけないものだったようだ。

 参議院で否決されても、衆議院で再可決を行なうつもりでいる自民・公明党は、採決で再び「造反」が起きないだろうかと懸念しているようだ。採決前にはあれほど、定額給付金政策は愚策だと言い切っていた自民党議員は一体どうしたのだろう。再可決には反対に回るのだろうか。金子一義国土交通相は渡辺さんの離党を「選挙で自民党が負けると思って辞めるのだろう。本当にけしからん男だ」と怒りをあらわにしていた。けれども、渡辺さんは定額給付金や公務員の天下りを批判していたのだから、こんな風にしか考えられないのかとあきれてしまった。

 日本の政治の中央では、政権を担ってきた自民党の凋落は目に見えるほどハッキリしてきた。政策を巡って真面目な論議もできないばかりか、いやだからこそなのだろうが、この国の将来を考えて発言できる政治家がいない。麻生首相では選挙に勝てない、政策も打てない。それでも麻生首相に代わる人物がいない。末期の江戸幕府に舵を取る人物がいなかったと同じだ。譜代も外様も、各藩の領主も薩摩・長州連合に手も足も出なかったが、政治が変わる時はそんなものなのかもしれない。

 ただ、今回は薩長となる政治家がいない。ここが問題かもしれないが、いずれは時間が解決することになるのだろう。中央のこうした動きにもかかわらず、地方では以前として自民党政権だ。全国で唯一、全国統一テストに参加していない犬山市で、教育委員会が嵐の目になっている。委員長の丹羽さんが文部科学相に提出した意見書を「越権行為だ」として、丹羽委員長の解任を委員会が議決した。反対したのは瀬見井教育長だけだったようだ。

 瀬見井さんには「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク」主催の講演会に来ていただいたことがある。温厚な方だが、「犬山の教育にものすごく愛情を持っている」人だった。どうすることが子どもたちのためなのか、論理を組み立てて話してくださった。石田前市長に代わって市長となった田中志典市長は、丹羽委員長と瀬見井教育長に「混乱の責任を取って辞任すべきだ」と圧力をかけている。全国統一テストの見直しが求められている時に、不参加を貫いてきたお二人を解任させる時代認識がまだ地方には残っているのだ。

 丹羽さんや瀬見井さんはきっとつらい思いをしていることだろう。東京の国立市のように、ここでお二人を擁護するような圧倒的な市民の署名が集まるとよいのだろうが、なかなかそういかないところが歯がゆく思う。それでも、時間はかかってもいつか必ずお二人の健闘は高く評価される日が来ると思う。
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雪景色妄想

2009年01月13日 22時26分30秒 | Weblog
 雪が降ってきた。そして見る間に積もった。今日は、NPO「おたすけ」の初会議であったけれど、こんな日だから止めようと言うことになった。外を眺めていると、かなり本格的な雪景色になってきた。雪国の人には申し訳ないけれど、真っ白に覆われる雪景色は好きだ。昔、真夏に津軽平野から眺めた岩木山がとても美しかったから、そのことを青森の人に話したところ、「真冬に一度行ってください。雪が下から吹き上げてきますから」と言われた。

 地吹雪の怖さを知らない。雪の怖さを知らないが故に「雪は美しい」などと言えるのかもしれない。雪国の友人は「雪が降る日は暖かいのだよ」と教えてくれた。雪降りに風が加わると寒さは厳しくなるけれど、深々と降る雪の日は暖かいそうだ。そんなことも雪が珍しい地域で育った私は知らなかった。雪の中ではしゃぐ、映画『冬のソナタ』のようなロマンチックな光景ばかりを雪景色に求めているのだ。

 雪に一人は余りにも寂しい。雪ならばどうしても恋する二人がいなくてはならない。今、思い出せないけれど、高校生の時読んだ芥川賞作家の作品に、新婚を迎えた二人が裸で布団に入る描写があった。ストリーそのものは忘れてしまったのに、その描写だけを覚えているのは性的な関心からだろう。自分が結婚した時は、小説の地方のように裸で布団に入る習慣はなかったから、結局これまで裸で布団に入ることはないけれど、やってみたならより暖かな気持ちがすると思う。

 雪のように白い肌という表現もある。実際に日本人の白い肌は白人よりも色が白い。それに白人は肌が粗いが日本人の肌はきめ細かい。しっとりしている。触ることができたならその感触は気持ちのよいものだろう。けれどもなぜ、雪のように白いという表現になったのだろう。それではまるで、冷たく無機質な感じを受ける。確かに、雪からは一点の汚れもない美しい白を思い浮かべることができる。そこからどこまでも真っ白な美しい肌のイメージが生まれたのかもしれない。

 雪が止み、雲の切れ目から青空が見える。雪が降るのが珍しいこの地方だからだろうけれど、なんだか人恋しくなる。雪国の人は長い間、雪に閉じ込められた生活を強いられるけれど、人恋しくなることはないのだろうか。そういえば、紅白にも出演した黒人演歌歌手のジェロが歌っていた『海雪』は海に降る雪のことだ。雪は海にどんなに降り注いでも積もることはない。

 恋のむなしさに似ている。どんなに愛していても形にならない。愛する側はこれでもかこれでもかと降り注ぐけれど、海に雪は決して積もることのない悲しい恋の歌だ。悲しいけれど、そういう恋も現実にはある。私の中学・高校からの友だちは、10数年も「友だち以上恋人未満」を続けてきているが、その方が傷つかなくてよいのかもしれない。雪景色からとんでもない妄想へいってしまったけれど、私は雪の中に思いっきり身体を埋めてみたい、そう思った。
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設問そのものが愚問なのかも

2009年01月12日 19時42分37秒 | Weblog
 今日は寒い。冬は寒くて、身体がガタガタ震えて止まらないほどの時が、昔はあった。最近ではそんな覚えがないから、暖かな日が多いのかそれとも暖房がよくなったのか、そんなことを思い巡らしていたが、今日は風が強くとても寒い。私の部屋は西側に大きく窓があり、鈴鹿の山々をはじめ、その右手には真っ白な伊吹山がよく見える。北に目をやればはるか白山連峰を眺めることができる。

 今日の伊吹山は忙しく様変わりしていた。伊吹山の後方に真っ黒な雲が立ち込めてきたかと思うと、強い風に煽られてどんどんこちらへ広がってくる。その様子は恐ろしいほどだ。すると粉雪が舞い、やがて霙模様となった。しかしそれもつかの間で、雪雲が切れるといつの間にか青空が見える。風は相変わらず強く吹き抜けていくが、青空から太陽が顔を出す。それでも庭の植木が大きく揺れ、落葉樹は丸裸となって寒さに耐えているように見える。

 友人と経済の話をしていた時、彼は「なあに、心配することはないと思う。朝の来ない夜はないから」と言う。確かに、こんなにも凍えそうな天気なのに、そんな日ばかりが何日も続くことはない。冬が来れば春も来る。地球も長い間、氷河期が続いたけれど、今日のような安定した気候になった。けれども、人間の営みが新たな気候変動を誘発しているのかもしれない。これからどうなるのかはわからないけれど、人の智恵や力では解決できないことならば、それは仕方がない。御心のままにと祈るほかない。

 友人は続ける。「人間の歴史を見てもそうじゃないですか。ローマは栄えやがて滅んだ。ヨーロッパは世界を支配したけれど、覇権はアメリカに移った。今、アメリカは力を失いつつある。それでも人間は生きている。生き続けている。いつも智恵を働かせ、危機を乗り越えてきた。淘汰ではないかもしれないが、やがて収まるところに収まる。そういうものではないですか」。

 私もそう思う。一つのものが壊されていくように思うけれど、それによって新たなものが生まれてくる。そうやって人間は生きてきた。生物の時間に「個体発生は系統発生を繰り返す」と聞いたけれど、科学でなくても以外に個人の生活もそうなのかもしれない。そういえば、もう一つ「質量保存の法則」を思い出す。どんな風に変わろうとも、質量は変わらないのだから、地球は何億年も前と表面的には様変わりしているけれど、結局何も変わってはいないとも言えるだろう。

 地球に何らかの変動が起こり、人の智恵と力ではそれを食い止めることができなくなっても、地球そのものは変わらないのか、それともビックバンが発生して宇宙に大変動が起きても、宇宙そのものは変わらないのか、「やぶれ」を研究していた益川さんや小林さんならきっと答えを知っているだろう。いや、そもそもこの設問そのものが愚問何かもしれないな。
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