友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

脱原発しかない

2011年10月20日 13時09分05秒 | Weblog
 東京都世田谷区の住宅街での放射線量の異常感知は、ラジウムが床下にあったことが原因であったけれど、誰かが放射線量を調べていなければわからないことだった。福島原発の事故が起きて、アメリカ政府はすぐにアメリカ人を帰国させるように動いたそうだ。私の知人の娘さんは東京に住んでいたが、妊娠していたので直ちにダンナの実家のある四国へ移住した。放射線は目に見えないから、そして何が起きるのかわからないから、怖いと思う。そうかと思えば、毎日宇宙からたくさんの放射線を浴びているのだから問題ないと言う人もいる。宇宙からの放射線と原発が発する放射線は違うものなのか同じものなのか、それで、私たちはどうすればいいのだろうか。

 福島原発から離れている地域でも、生活を再開するためには「除汚」が必要というので、高圧水で家の屋根や壁、雨どいなどを洗っている。校庭や園庭の土を削って入れ替えている。道路も高圧の水で洗い流している。これから自治体をあげて、「除汚」に取り組むという。それで、校庭や園庭の取り除かれた土は行き場がなくて、庭の隅にブルーシートに覆われて放置されている。小さなものでも集めれば大きくなる。拡散された放射線も集めればもっと危険ではないのかと思ってしまう。土は目に見えるから、引き取り手がないけれど、高圧水で洗い流したその水は、放射線を集めてどこへ流れて行くのだろう。

 福島原発の事故を抑える決め手は冷却だというので、たくさんの水が原子炉に注ぎ込まれている。そればかりか、事故のあった原発にも雨は降り注いでいる。それらの水は当然にも放射線で汚染されているだろうが、「除汚」されているのだろうか。日本の原子力発電所は全て海岸近くにあるのは、原子炉を冷却するのに海水が利用されているからだ。その海水は放射線に汚染されない仕組みになっているだろうけれど、今回のような事故が起きた後ではまず冷却が優先されるから、「除汚」は二の次にされるのではないか。事故は想定を超えたものだったと弁明されているけれど、人が生きていけない事態にまでなってしまった以上、やはり脱原発に切り替える必要がある。

 人類は火を手にして、歴史を創ってきた。木材を燃やしてCO2を生み出しているとしても環境破壊に至るとは思わなかった。それが化石燃料を使うようになって、生産力は各段と高くなったが、大気の汚染は深刻になった。鉄をはじめとする金属は人類の発展に大いに役立った。溶かせば再利用も可能であった。原子力発電は大気を汚さない画期的なエネルギーと言われたけれど、一度事故が起きると取り返しは出来なかった。なぜ、原子力発電に力を入れてきたのだろう。自民党の石破茂さんは言う。「「原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという『核の潜在的抑止力』になっている。原発をなくすということは、その潜在的抑止力をも放棄することになる」。なるほど、そうだったのか。ならばいっそう脱原発を進めなくてはならない。
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ドラゴンズの優勝と落合監督の采配

2011年10月19日 22時00分56秒 | Weblog
 中日ドラゴンズが9度目のセリーグ優勝を果し、監督の落合博満さんが胴上げされていた。私は全く野球を見る目がなかった。確か、ドラゴンズが不振に陥っていた時、ベンチの中は寒々としているというようなことを書いた気がする。落合監督と選手の間に意思疎通がないのではないかといい加減な観察だった。落合監督は8年間で4回リーグ優勝しているばかりか、初めて連覇を実現した。それは確かに凄いことなのだろう。「選手がよくやってくれた」と落合監督は選手を讃えていた。その目は潤んでいた。なのに、白々しい響きを感じたのはどうしてなのだろう。

 今日の中日新聞を読んでいて、何となくわかった気がした。「普通のチームの監督は、この選手をレギュラーにすると決めたら、ずっと使い続ける。若い選手は調子が悪くなっても使い続けないと育たない」と言う元中日監督の中利夫さんの言葉が載っていた。「若い選手の力は、ベテランのように計算ができない。だから落合監督は不調に陥れば素早く見切りをつけ、リスクを負うことはしなかった」と記事は落合流を紹介している。落合監督は「自分(落合)を越えろ」と選手に檄を飛ばしたそうだけれど、「誰もいなかった」と嘆いて(?)いた。

 落合監督のこうした選手の使い方は、「強いチーム」で「よい結果」を作り出しているにもかかわらず、日本人には人気がないようだ。日本人が求めている指導者像は、「強い」だけでなく、「人情味がある」ことなのだ。理攻めで賢すぎる(?)人は冷たいと嫌われる。そう言いながら、血を分けた親や兄弟をも殺害してしまった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出世物語が大好きな日本人だから、日本シリーズで優勝すれば、落合監督の評価はコロリと変わってしまうのかも知れない。私は義理人情に酔ってしまう方なので、落合監督のような勝つための冷静な采配が出来ない。自分でも冷たいなと思うくらいのことをしてしまうけれど、どうしても完全に出来なくて甘いところがある。

 テレビで中国のどこかの都市の繁華街で、幼い子どもが車に轢かれたのに、見て見ぬ振りで通り過ぎる人たちの動画が話題になっている。中国では余りにも人が多いから、他人のことなど思いやる余裕がないと私も中国を旅した時にそう思った。自動車がスピードを上げて走っている通りを自転車や人が堂々と横断している。信号はあっても無視して渡ってくる。子どもが血を流して倒れているのに、かかわればその後も制約されるので無視しているのだろう。中国は共産党政権であっても、生活の基準は個人主義だ。他人への思いやりなどは存在しない。自分と自分の家族を守ることで精一杯なのだ。

 資本主義社会では個人は労働を提供するものでしかないから、個人と個人のかかわりは極めて薄い。中日ドラゴンズでは勝つために個々の選手に努力を求めても、チーム全体で頑張ろうという連帯感は必要とされなかったのだろうか。他者への思いやりはスポーツには存在させてはならないのだろうか。落合監督の退任が発表された以後、選手は猛烈に発奮したけれど、選手から「監督のために勝つ」などの言葉は聞かれなかったそうだ。スポーツをやっていて、楽しいんだろうか、そんな気がした。
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『流星』

2011年10月18日 22時03分23秒 | Weblog
 NHKテレビの夜8時からの「歌謡コンサート」を見ていたら、俳優の里見浩太郎さんが出ていた。この人も歌を歌うのだと思って聴いたけれど、なんとも切ない歌だった。歌の題名は『流星』とあった。歌詞をインターネットで調べてみると、1番が「残り火の生命が 燃え尽き消えるなら それも良し 逝くも良し 潔いよいならば」、2番が「愛しき彼の女 手枕にするなら それも良し 抱くも良し 秘め事であれば」とある。その後で歌った北島三郎さんの歌も何か寂しい歌であったけれど、題名さえも覚えていない。

 『流星』の歌詞はまるで年老いた人への葬送曲のようだ。死んでいく人はそれでよいのだろう。私はどんな風にして逝くのだろうか。そんなことがフト浮んで来た。ああ、私も歳だなあと思った。近頃、体力がないなあと感じることがある。足の膝が痛くて、歩けなくなって来たことや、心拍数が低くなったことも大いに関係している。若い、若いと思っていたのに、鏡に映る自分を見るとナンとまあ年寄りかと思ってしまう。大和塾の11月3日の市民講座『ひとりオペラ 異聞道成寺縁起』のポスターを貼ってくれるようにお願いに回っている。「ええ、いいですよ」と言ってくださったのに、未だに貼ってくれないところもある。そうかと思えば、「こういうポスターが大事ですよね。いくらでも協力させてもらいます」と言ってくれるところもある。

 「貼るのはいいけど、ちゃんと剥がしておけよ」とぶっきらぼうに言う人や、「こんな凄いことやってるんですか。皆さんに話しておきますね」と言ってくれる人もいる。若い時の私なら、励ましてくれる言葉に勇気付けられ、ますます調子に乗って頑張っていただろう。逆に、辛い言葉を受けた時も、なにくそという気でもっと頑張っただろう。それが今、励ましの言葉に思わず泪してしまい、辛い言葉にもっと落ち込んでしまう。根性なしになってしまった自分が情けない。ひたすら必死に立ち向かっていく自分はどこに行ってしまったのだろう。こんな風にして、人は終末期を迎えるのだろうか。

 「NPOにすると行政からお金が出るのかね」と聞かれた。人々はNPOならば行政から何らかの援助を受けていると思っているようだ。残念ながら行政からの援助はない。もっと言えば、行政と結びついたNPOしか生き残っていかないだろう。これからの社会を考えてみると、高齢化はさらに進むのに経済の伸びは見込まれないと考えるのが普通だろう。だからこそ、生活のスタイルは変わっていくし、価値観そのものが大きく変化していくだろう。それは右肩上がりではない、自給自足に近い生活になっていくと私は思う。工業生産に従事する人は減り、農業に従事する人が増えるだろう。サービス業がさらに盛んになるのはそれだけ生産力が高くなったということだろう。それが実現できないようなら、人類の生存そのものが危ないような気がする。
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九電社長の発言を聞いて

2011年10月17日 21時44分56秒 | Weblog
 今日は11月3日に大和塾が行う第23回『ひとりオペラ 異聞道成寺縁起』で配布する機関誌の原案作りをする予定でいたが、急に井戸掘りに召集されて出かけた。あの夏の日の井戸掘り以来、どういうわけか膝が痛くて歩けない。しかしメンバーはいないのだから、そんな勝手なことは言えない。貼り薬でごまかして出かけたけれど、夕方になるとまた痛み出した。タイのバンコクが水に浸かっている様子をテレビで見ていたカミさんが、もう帰国して茨城に住んでいるのだから、別に問題はないと思う次女のところに電話をして、洪水の話をしている。それも変だなと思うけれど、次女が「あなたのことを心配しているよ」と言うので、電話を代わって話す。

 毎日、私のブログをチェックしている次女は、「飲みすぎて大変だったみたいだけれど、もう若くないんだから無理しちゃダメだよ」と言う。「いや、無理したわけではなくて、本当に楽しかったんだよ。でも、わからなくなるような飲み方はあかんね」と答えると、「パパ、実は私もそうなの」と自分の失敗を話し出す。タイにいた時はたくさんの友だちがいたので、ワイワイガヤガヤとやる機会が多かった。ところが日本に帰って来て、タイにいた時のような気楽に飲めるような機会がなかったところへ、タイの時の友だちが遊びに来て、つい飲みすぎてしまったそうだ。お酒は楽しく飲むことが一番いい。度を越すような飲み方をしない覚悟が必要な父と娘のようだ。

 度を越すことのない自制心をなくしてしまった私だけど、九州電力も酷い。私は酔っ払ってちょっと記憶がなくなっただけで、他人に迷惑をかけたわけではないが、九州電力はやらせメール問題の原因追及で、記憶を失ったわけでもないのに、知事からの示唆については一切ゼロにしてしまった。この点を記者に質問された九電の社長は「もう、そのことはいいじゃーないですか。第3者委員会は解散していますから」と言う有様だ。第3者委員会は何のために設けられたのか。九電からすれば第3者による検討をしていきましたという隠れ蓑というか、言い逃れのための道具でしかないようだ。

 九電の社長の記者会見をテレビで見ていると、「あんたたちがやれと言うからやってあげたじゃーないですか」、そんな言い分が見え隠れする。「ゴチャゴチャ言うならいいですよ。明日から電気止めましょうか」と言葉は優しいけれど、強面のセリフが飛び出してきそうだ。友だちが「社長は殿様気分でいる」と言っていたけれど、江戸時代の殿様のつもりなのかも知れない。佐賀県知事の「原発推進を発言するように」という示唆があったために、会社を挙げて賛成メールを送ってしまった。そうした会社の体質が社長の他人事のような感覚を生んでいるのだろうし、その逆が真なのかも知れない。他人に迷惑をかけているなどとはこの社長は全く感じていないのではないか、そんな気がした。
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ドイツ「緑の党」の講演会

2011年10月16日 18時39分12秒 | Weblog
 原子力発電を国策としてゼロにすると決めたドイツ。そのドイツから「緑の党」の連邦議員が来るというので、講演を聞きに行った。58歳の眼光の鋭い女性だった。州の環境大臣を務めたこともあるベアベル・ヘーンさんの政治への関心はやはり環境問題が出発点だったそうだ。彼女が引っ越したルール地方は私たちもよく知っている工業地帯で、息子の健康を心配した彼女は環境改善を訴えて市民運動に取り組むようになった。そして緑の党の党員となり、環境問題に取り組んで来たけれど、決して安易な道のりではなかったようだ。

 緑の党が政権与党にまで登り詰めることが出来たのはいくつかの要因が重なった。1970年代、世界各地で学生運動が激化した。ドイツも例外ではなく、過激な運動が展開された。その時の若者たちが各地に散らばり、地道に市民運動を取り組むようになった。40年前のことが今になって実を結ぶことになったのだ。だから緑の党は高齢者にも受けがいいと笑わせた。ソ連は崩壊し、東欧はヨーロッパの仲間入りをした。けれど、世界経済は伸び悩み行き先が見えなくなっている。この変化も人々が緑の党に期待を寄せる要因になった。

 ドイツでは牛を飼っている人々は保守の象徴であったけれど、今は変わってきていると彼女は言う。さすがにドイツ人だと感心して聞いたけれど、牛を飼っている人々は広い農地を持っている。風力発電や太陽光発電にその農地を貸せば、農地から得られる収入と同じかあるいはもっと多くなる。しかもそれは自然エネルギーを振興する社会貢献にもなる。緑の党は理屈で保守的な農民を味方にしていった。彼女は言う。大企業は利益を追求するが、損失が出た時は政府に救済を要求する。(アメリカのウォール街のデモの人たちもそう言っていた。)だけれども、規模が小さくなれば地元に根付いていかなくてはならないと。

 緑の党は脱原発だけを主張して来たわけではない。どのようにして脱原発を実現するかを提案して来た。それはどのような社会をつくるのかという提案でもあった。そこが日本の脱原発運動との違いかも知れない。原発を無くせば、生産はストップし、経済はますます落ち込むことになると企業が説明すると反論できない。電気の無い暮らしができるのかとまで脅され、省エネに努めようとする。するとそれでは電気が売れなくなるので、当面の電力需要には対応できると説明されるとヤレヤレと感謝さえしている。彼女の言うように「小さくする」ことは意味があると思う。

 緑の党の政策は、ルーズベルトの「ニューディール」を真似てグリーンディールだと言う。グリーンに投資して社会の再生を図るというものらしい。会場からは「どうやって政権を取ったのか」という質問があったが、そんなことを質問している程度なのかとガッカリしてしまった。会場にはやはり高齢者が多かったけれど、中には若い女性たちが意外に見られた。原発を身近な問題と考えられる世代なのかも知れない。国政を変えることは難しいけれど、自分たちの住んでいる地域を変えることならば出来る。地域を変えることが出来れば、そのうちに国政も中身が変わっていくだろう。
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アメリカの言論界はどうなのだろう

2011年10月15日 18時58分01秒 | Weblog
 アメリカのニューヨークで、「ウォール街を占拠しよう」という若者たちの運動が続いている。ニューヨーク市は公園を清掃するから公園を出るように要求したが、集まっている若者たちを排除するためかと反発されて撤回した。テレビを見ると若者たちばかりでなく、結構な年配者もいる。運動の中心的な担い手は若者で、大学を卒業してもまともな就職先がないことの不満が原動力になっている。「1%の富裕層に税金が注ぎ込まれるのは不公平だ」と主張。こうした抗議デモばかりがテレビで取り上げられるけれど、富裕層や富裕層に寄生して生きている人々からの発言はないのかと思っていたら、13日の朝日新聞にプリンストン大学の教授がこれらの声を紹介したものを載せていた。

 教授の原文が悪いのか、訳し方がヘタなのか、未整理な文章のように感じた。教授は記事の最後で、「ウォール街の悪役ヒーローたちは、倫理的に自分たちの地位を正当化できないことを悟ったのだ。彼らは、複雑な金融商品を売り歩くことで金持ちになった人たちだ。そしてこの金融商品は、米国の人々に利益を分配するどころか、危機に陥れた。まさにこの金融危機の余波が、何千万人もの市民の生活を苦しめ続けている」。「それでも彼らはなんの代償も払っていない。金融機関はほとんど無条件に、納税者によって救済された」。「何億円という所得の人が、中所得者よりも税の負担率が軽いというような“抜け穴”によってもうけている」。そんな風にまとめている。

 では、その前の文章はというと、ここで富裕層やその取り巻きの人々が述べていることを羅列している。たとえば、「共和党のカンター下院院内総務は『暴徒』『米国人同士の対立をあおるもの』と避難した」。共和党の大統領候補は「抗議者たちを『階級闘争』を仕かけるとして糾弾」とか、「『反米国人』と呼ぶ」と紹介している。また、「金融界の大物であるブルームバーグ市長は、抗議者たちを『この街で働く人々から仕事を奪おうとしている』と批判した」。「CNBCテレビの論者たちの話を聞いていると、抗議者たちは『異端の旗をはためかせ』たり、『レーニンのもとに結集』したりしているようだ」と。

 さらに、「金融制度改革に尽力し、上院議員選挙に立候補しているエリザベス・ウォーレン氏に対して誹謗中傷キャンペーンがあった」と述べている。ウォーレン氏は20世紀の最高裁裁判官の有名な格言(税金は、文明社会への対価である)を、現代風に言い換えただけであったが、「金持ちの守護神たちは、ウォーレン氏はトロツキーの再来」とか、「(中央集権的な統制の必要性を強調する)集団主義者」あるいは「個人主義は幻想だと思い込んでいる」。「寄生先を嫌う寄生虫だ。寄生先から命を吸いとり、寄生先を破壊してしまうようなヤツ」と批判していると取り上げていた。

 アメリカでは、共産主義とか左翼と言うだけで理屈ぬきに嫌われるようだ。あいつらのやっていることはアカだとレッテルを貼り付ければ国民の多くが納得するのだろう。どこの国も同じようなことをしている。
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悔しいというか情けないというか

2011年10月14日 21時08分31秒 | Weblog
 悔しいというか情けないというか、そんな時がある。雨が降りそうだったけれど、まだ大丈夫だろうと傘を持たずに出て、しばらくすると雨が降り出してきた。降りそうだと思ったのに、どうして傘を置いて来てしまったのかと悔やむ。大事な物を落としてしまった時もそうだ。気に入っていて、ずっと使ってきた大切な物なのに、ふとした弾みでどこかに落としてしまったり、忘れてきてしまったりすることがある。あれだけいつも注意していたのに、その時に限ってどこか上の空だったりすることがある。絶対に無くしたくないものだったのに、何かの拍子で失ってしまうこともある。自分の不注意から生まれた時は悔しいよりも情けなくなる。

 11月3日の大和塾のポスターをマンションの掲示板に貼らせて欲しいと、自治会長さんにお願いした。「10日前からでは遅いので、少し早いかも知れませんが、12日の水曜日から貼ってもいいですか」と願い出たものだ。自治会長は「いいですよ。私から管理事務所にそう言っておきます」と言ってくれた。それで、私は12日の午前中に管理事務所で許可の印を押してもらい、職員の方の迷惑を考えて、自分で9枚のポスターを貼って回った。ところが翌日である昨日、全てのポスターが剥がしてある。ビックリして管理事務所へ出かけると、「早いので剥がしたが、来週にはまた貼ります」と言われる。役所は融通が利かないところだけれど、我がマンションはもっと融通が利かないのかと愕然とした。

 雨風などの自然のことであれば我慢もできる。自分の失態であれば悔しくて情けなくて涙が出てしまう。けれどもこれはどう思って納得したらよいのかと怒りがこみ上げて来た。しかし、「そうですか、ワカリマシタ」と事務所を出た。これ以上居ることは出来なかった。考えてみれば、会長に頼んで、早めに貼るというのは権力の乱用である。そう思ってはみたが、そもそも掲示板に貼ることになぜ制限を設けるのだろう。無制限にしたなら、グチャグチャになって汚くなると言うだろうが、実際にそんな場面など見たことが無い。なるであろうという推測から、何日前からしかダメだと決めているだけのことだから。

 私が知る限りでは、このマンションに掲示されるもので目に余るものはなかった。掲示板に貼れなくて隣りの壁に貼ることも許しているくらいだ。他所の人が来て貼るわけではなく、管理事務所が許可したものだけを職員が貼っている。情報はできる限り制限せずに伝えることが良いと私は思っている。それで誰が困るというのだろう。管理事務所の職員に貼らせるのではなく、掲示したい人が自分で貼り、期限が来れば自分で剥がすようにすればよいではないだろうか。自分たちで自分たちの情報量を制限してしまうやり方に私は納得できない。誰もが自由に掲示でき、それを受け入れるか否かは個人が判断する、それが大切なことだと思う。

 悔しいというか情けないというか、それを悲しいと思うのは我がままなことなのだろうか。
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記憶が飛んでしまった

2011年10月13日 13時50分22秒 | Weblog
 延べ日数28日、6月末から始めて9月一杯までの3ヶ月に及ぶ長い井戸掘り工事が完了し、昨日は依頼主の好意で『祝いの会』が開かれた。私たちの代表も、依頼主のお母さんに「毎日お世話になりました」と花束を用意して行った。『祝いの会』は昼間で、苔むしる日本庭園を見ながら、焼酎を飲むというものだった。依頼主が「この頃は焼酎にしている」という話から、「完成した暁には皆さんで焼酎パーティーをしませんか」と提案されていたのだ。もともとお酒は大好きな私たちの仲間は「それはいい。やりましょう」とすぐに了解した。そしてその日がやって来たのだった。

 依頼主は私たちよりはるかに若い。先日まで、ヨーロッパへ行っていたというので帰国された時はハンガリーのチョコレートをお土産にいただいた。私たちのような年寄りが仕事相手に多いのか、なかなか話も上手で飽きさせない。初めはビールで乾杯し、それから焼酎の人は焼酎をいただき、ワインのことならソムリエよりも詳しいと自慢する依頼主がワインを出してくださった。ワイングラスを見たら本格的なのがよくわかった。みんなが「この人はワイン好き」と私を指名するので、依頼主はワインの産地や色や香りの話をしながらどんどん注いでくれる。私もいい気持ちになって、大いにサービス精神を発揮して飲み、おしゃべりした。

 そこまでは覚えている。2時までには帰らなくてはならない人がいたので、時計を見た。1時半くらいだった。そろそろ帰る頃になって来たがと周りを見たけれど、まだまだ話は盛り上がっている。記憶はそこでぷっつりと切れている。次に気が付いた時はフトンの中で寝ていた。午後5時を過ぎていた。枕元にはケイタイがある。誰かにメールをしたのだが、それさえも覚えていない。カミさんが帰って来て、「晩御飯はどうするの?」と言うから、「いらない」と答えた。別に頭が痛いとか気分が悪いということはない。しばらくすると、「生の秋刀魚だから、食べて」と言う。秋刀魚を食べて、また寝てしまった。夜の8時過ぎだったから、今朝起きるまで10時間も寝ていたことになる。

 朝になって、昨日はどうやって帰って来たのだろうと、思い出そうとするが何も思い出せない。みんなに迷惑をかけていないかと心配になる。午前8時過ぎるのを待って電話してみる。「いや、いつもと変わらなかったよ。家内なんか、私があなたに送ってもらって帰って来たと言ってましたよ」と言う。そうか、記憶はないけれど、しっかりした足取りで家には着いたのか。それで安心できたのか、断片的に思い出すことが出来た。途中で喫茶店に寄ってコーヒーを飲んだこと。店のママさんにタクシーを呼んでもらって帰ったこと。その運転手さんが私たちの代表の知り合いだったことなどが浮んで来た。それでもつながっていかない。まあ、いいか、誰にも迷惑をかけていないようだから。それにしても、記憶が無くなるまで酔っ払ったのは大学の時以来、始めてこと?いやそれもハッキリしていない?
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やれば出来るという錯覚

2011年10月11日 21時54分04秒 | Weblog
 戦前に教育を受けた人たちは漢字や漢詩をよく知っている。昭和6年生まれの人と話をしていたら、学校に軍から派遣されていた教官に、教練の時に「障害物がありました」ではなく「障害物有り」と書くように指導を受けたそうだ。漢文調の文章を書くように教えられたわけである。私の高校は進学校だったので一般的な漢文の授業は受けたけれど、さらに勉強するためにはゼロ時間とかシチ時間授業を受ける必要があったように思う。要するに受験のための補習授業で、高校の予備校化に反対していた私は出席しなかったので、よく知らない。

 80歳くらいの先輩たちは漢詩を諳んじていたりして羨ましい限りである。私と同年の中にも漢文や漢詩の得意な友人もいるから、これはただ勉強してこなかっただけのことなのかもしれない。奈良時代から戦前までは、漢詩や漢文に通じていることは教養のある人の基本だった。戦後の教育はもっと多くのことを教えなくてはならなくなり、漢詩はもとより難しい漢字までも省略して来たように思う。戦前の小説家に比べて戦後教育を受けた小説家は余り難しい漢字を使わない。だから私には読みやすくて助かるけれど、以前、中学しか出ていない芥川賞作家の西村賢太さんの小説を読んで驚いたが、読めない漢字が次々と出てきた。

 西村さんの私小説的小説を読むと、ウソかホントかわからないけれど、自分が手本としている作家の本をよく読んでいる。独学で勉強を重ね、漢字の知識の広さを誇示している。人は必死になれば何でも出来る。中途半端なヤツは結局どこまでいっても中途半端だなと、この歳になって自分のことがよくわかってきた。何でも出来るような気になって、いつでも出来るような気になって、そのうちそのうちと言い聞かせているうちに、もう何もなくなってきている。そのことに気が付かない、いやはや錯覚の世界を情熱的に生きていると思い込んでいた。

 友だちの中にはまだまだ元気なヤツもいて、17歳も年下の人妻に本気になって恋をしている。彼は彼、そのことを羨ましく思ったり批判したりするつもりは毛頭ない。人は何を生き甲斐に生きるかである。恋に生きられるならば素晴らしいではないかと思う。私は真剣に勉強してこなかった漢詩や短歌に、この歳になって興味が湧いて来た。漢詩は作れないけれど、短歌なら作れそうな気がして、時々メモしている。そうしながら、やはり自分は未だにやれば出来るという錯覚に陥っているなと感じている。どこまでも中途半端な極楽トンボから抜け出せないようだ。
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本物の恋を求めて

2011年10月10日 20時13分37秒 | Weblog
 11月3日に上演する『ひとりオペラ 異聞道成寺縁起』のプログラムを作っていて、安珍清姫物語はどういう設定だろうかと話題になった。安珍は東北から熊野詣でにやってきたイケメンの修行僧で、清姫はこの辺りの庄屋の娘というのが一般的な設定である。清姫の家は熊野詣での旅人を世話するくらいだから豪農だったのかも知れないし、かなりの豪族だったという説もある。そんな豪農か豪族かが問題ではなく、清姫は幾つくらいの女性だろうかと友だちは疑問を投げかける。彼女は清姫がうら若き女性であったなら、あれほどまでに激しく恋することはないはずだと言う。

 彼女自身は、小学校の同級生と大学受験の時にばったり駅で出会い、激しく恋に落ちた。二人の結婚当時の写真を見たことがあるが、これほどの美男美女は見たことがないと思うカップルだった。恋の深みを知っているからこそ、うら若き乙女は周りが見えなくなってしまうほどの恋はしない、いや出来ないのではと思っているようだ。「恋」というと、どうしても若い男女のことのように思ってしまう。小説や映画の「恋」の多くはそうだろう。純愛物語は若い人たちにはふさわしいけれど、中年や老年の男女の純愛を大人たちは本気で受け止めない。

 安珍清姫の伝説もほとんどが若いふたりの恋物語となっている。けれども昔話の中に、安珍は若い修行僧だけれど清姫は後家という設定のものもあるそうだ。嫁にいったけれど夫を亡くして実家に帰って来ていたのか、たまたま実家に帰って来ていた時に安珍に出会ったのか、詳しくはわからないけれど、とにかく清姫は安珍の世話をしていて好きになった。「『ふたりは一晩を共に過ごした』という表現でわかるかしら」と友だちが言う。普通の大人ならそれでわかるだろうし、子どもたちが聞いても嫌な感じはしないと思う。安珍と清姫は一晩抱き合って過ごした。それは男と女の恋の最高の形態と言えるだろう。

 安珍と清姫はひとつになった。だから清姫は熊野詣でが終わったら、「必ず寄ってくれ」と安珍に言い、おそらく安珍も「わかった」と言っただろう。それなのに、なぜ安珍は清姫に隠れるようにして帰ろうとしたのだろう。本当は国許に好きな女がいて、清姫との一夜は単に魔が差したのだとも考えられる。安珍には若い欲望を満たすだけの一夜の恋だったのか。清姫は一夜のことが忘れられない大切な出会いだったのか。安珍が逃げれば逃げるほど、清姫はなりふりかまわずに追いかける。清姫にとって安珍は一夜を共にしただけの男ではなくなっていく。安珍はなぜ清姫から逃れようとしたのだろう。

 自分が安珍ならば、自分が清姫ならば、と考えてみるけれど、いくら考えてもハッピーエンドの結論には辿りつかない。「恋」にハッピーエンドは似合わないのかも知れない。逆説的に考えれば、ハッピーエンドに終わるような「恋」は本物ではないのかも知れない。心がズタズタに切り裂かれるような「恋」こそが本物であるなら、人は本物でなくても幸せな「恋」でよかったのかも知れない。
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