友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

スマホで子どもの子守りはいいの?

2016年02月17日 17時33分18秒 | Weblog

 1歳9か月の孫娘はここで暮らすことに慣れて来たのか、私たちの生活の一部になっている。朝、7時30分には起き出して、「あっち、あっち」と私たちがいる部屋に行きたと意思表示するそうだ。何でもよく食べるし、何にでも興味を持つ。仙台の家では食事中はテレビをつけない。それくらい次女は子どものしつけに厳しい。

 なのに、私たちが朝のドラマ『あさが来た』をBSで見ているので、その続きでテレビを見ながらの食事になってしまった。昔、私の子どもたちがこのくらい小さな時、「子どもをテレビに子守りさせるなんて」といった論議があった。今ならさしあたり、「子どもにスマホを持たせるなんて」ということかも知れない。

 1歳9か月の子どもでもスマホの画面操作が出来る。私自身はスマホよりも絵本に興味を持ってほしいと思うけれど、おそらくそんな風にはならないだろう。孫娘はEテレの幼児向けの番組が好きだ。エッと思うような言葉遣いもあるけれど、幼児の知識は確実に増えていくだろうと思う。

 今年、小学校に入学する長女のところの孫娘は既にスマホなしでは生活できない。そんな姿を見ていると、本当にこれでいいのかと心配になる。ハーバード大学の工学部や医学部では、音楽や文学に親しむようにしていると聞く。数値や記号ばかりにとらわれていると、想像力が失われるからとあった。

 テレビに子守りさせることが悪いとは言わないが、そこに母親や父親が関与しなければ意味がないように思う。次女は完全主義者というか、余りにも潔癖すぎ、あいまいさを許せない。でも見ていると、あいまいでいいとなると、自分の怠けクセが出てしまうのを恐れているような気がする。

 完璧に努めようとすることは次女の目標なのだから、それを認めてあげなくてはいけない。その上で、あなたは努力しているのだから100%でなくてもいいよ、人間はみんな全てを完璧には出来ない、努力しているのだから、それを認め合おうよ、そう言ってあげたい。

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女性大臣の暴言の本性

2016年02月16日 23時33分02秒 | Weblog

 島尻北方担当大臣が「歯舞(はぼまい)」を読めなかったとしても、よくあるド忘れくらいにしか思わなかったが、大臣としての資質や品格は問題がありそうだ。私の中学・高校時代では学年のトップはいつも女性だったし、知識も品格も優れていたから、女性が大臣になるのに全く違和感はない。

 けれど、男にも女にも不適任な者はいる。島尻大臣は宮城県の生まれで上智大学を卒業し、政治家としては沖縄の那覇市議に当選したのが始まりだった。この時は民主党系の市議だったが、2期目の途中で参議院補選に立候補し、当選して自民党へ移った。普天間基地についても県内移設容認であったり、島根県主催の「竹島の日」に出席したり、政治信念は疑わしい。

 「反放射能派というか、どれだけ下げても心配と言う人たちが騒いで、何の科学的根拠もなく、時の環境大臣(民主党)が決めた」と、被爆放射線量について演説した丸川原子力防災担当大臣は、当初は「撤回しない」と発言していたが、国際基準と分かると、「福島についての発言部分を撤回する」と答弁した。原発事故による放射能汚染についての見識がこの人にはない。

 丸川大臣は東大を卒業してテレビ朝日のアナウンサーとなった人だが、安倍首相に心酔し政治家を志した。2007年参議院選の東京選挙区から立候補しトップ当選した。この時、「幸福の科学」の支援があったと言われている。国会でのヤジは際立っていた。日本の核武装化についても検討すべきと考えている。

 高市総務大臣も権力者の側にいることを全面的に表している。今年の3月で、テレビの有名キャスターが相次いで降板する。自民党から局の上層部に「番組つくり」について調査が行われたからだ。高市大臣は政治的公平に反する番組に対して、「(局に)電波停止もありうる」と公言した。安倍首相も「一般論を述べたものだ」と応援する。

 いかにも正しいように聞こえるが、とんでもない権力の乱用である。テレビ局やラジオ局あるいは新聞や週刊誌が、どのような報道をしようと、判断するのは国民自身でなくてはならない。政府が報道に口を出すなら、国民は政権の思想統制下に置かれるということだ。男でも女でも、権力志向の強い人間は危険である。辞任に追い込めない野党が誠に情けない。

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風呂

2016年02月15日 17時53分44秒 | Weblog

 昨日、朝の大雨が上がると、まるで春のような生暖かさに包まれた。車のエンジンをかけると、暖房ではなく冷房になった。通り沿いにある梅の木は満開だ。白梅も紅梅も見事なほどに咲いている。なのに、今日は冷たい風が吹いている。我が家のルーフバルコニーの鉢植えのチューリップもほとんどが芽を出している。先日、雪が積もった時は芽が凍傷にならないかと心配したが、どうやら杞憂だった。

 昨日は長女のところの6歳の娘を預かった。これまではひとりで来ることは一度もなかったから大きな成長である。4月から1年生になるので、お姉さんだねと教え込まれているのか、自ら自覚してきたのか、とにかく立ち振る舞いが違ってきた。さらに驚いたのは、母親の迎えが遅くなると分かると、「お風呂入っていく」と言う。これも初めてのことだ。バアバと次女の1歳9か月の娘と3人で、ワイワイやりながら入浴し、「楽しかった」と言う。

 友だちの家もいつも4世代が存在していたと言う。我が家は3世代の10人家族だったが、私は兄貴の子どもたちと風呂に入ることはなかったと当時を思い出す。家屋の中に風呂場はあったが、脱衣所もなく風通しはよくて、ひとりが入るのが精いっぱいだった。そんな小さな風呂で10人も入っていたことは不潔な気がする。それでも家に風呂があるのはよい方で、友だちの多くは銭湯へ出かけていた。私は母親に許しをもらって、友だちと銭湯へ行ったこともある。

 あれから60年余、時代はすっかり変わった。家にはエアコンがあり、テレビがあり、ふたりは入れる風呂があり、脱衣場にもエアコンが付いている。こんな贅沢な生活をするようになるとは思いもよらなかった。私は庭で鶏を飼う生活でも構わないが、子どもたちはそんな生活は出来ないだろう。今ある生活を質素にすることは出来ても、昔の生活に戻ることは出来ない。みんなが同じように暮らしているのなら、人はそれで「ヨシ」とするものなのだろう。

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団体広報のスキルアップ

2016年02月14日 18時52分12秒 | Weblog

 知り合いのNPOが主催した「団体広報のスキルアップ講座」に参加した。講師は電通のディレクターだった。話の内容は、人に伝える仕事を主にしてきた私には、100%出来たかどうかは別にして、自分が行ってきたことだった。地域での新聞作りも、議員活動も、市民活動も、どういう「信念」のもとで、その「使命」は何をするのか、その「目標」をどこに置くのか、働きかける対象の「ニーズ把握」はどのように行うのか、「使命」を実現する「戦略」をどのように展開するのか、である。

 中学・高校の時の生徒会も、高校・大学の時の新聞部も、構造は同じだ。物を作る仕事ではなく、伝える仕事はおよそこんなものだろう。講師は恋愛を例に挙げて話された。自分がいて、恋愛の対象がいて、ライバルがいる。多くの人は、自分が対象に対し熱い気持ちがあるかばかりに目がいってしまう。対象がどんな人で何を考えているか、何が趣味で何が好きか、家庭のことや子どもの頃のことなども知らなければ成就しないし、ライバルについても知っておく必要がある。これが「ニーズ把握」であり、「戦略」を立てることだという訳である。

 私が一番関心を持ったことは、PublicとPrivateの問題だった。Publicはメディアが支配するのが通常だったけれど、最近ではPrivateの側から発信したものがPublicに溢れるようになった。例えばユーチューブのように、個人が発信したものを世界中の人が見られるようになった。つまりメディアの支配が効かなくなった。このソーシャルメディアはさらに進化するだろうと予測する。情報の垣根は無くなっていくのだから、さらにいっそう個人が主体となっていくと考えられる。

 情報伝達の技術革新が進むことは必至だから、これまでのような社会の形もそれにともなって変わっていくだろう。どんな時代になるのか興味深い。今はもう、新しい時代が始まっているのだが、形が見えない。いつも時代は、後から「ああ、そうだったのか」と分かる。

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人間が背負う宿命

2016年02月13日 17時10分52秒 | Weblog

 仙台から次女一家がやって来た日に長女一家にも来てもらって、歓迎会を開いた。長女のところの次女は6歳、この春には小学校へ入学する。次女のところの長女は1歳9カ月、いろんなことに関心が出てきていた。長女のところの6歳の娘は、次女のところの娘を相手に上手に遊べる。保育園生活が長く、今年は年長組だから下の子との接し方が分かっているのだろう。

 ふたりのやり取りを見ていると、元々人間は集団生活をしてきたことがよく分かる。上の子が下の子の面倒をみることができるのも、集団の中でその手本を見て育ったからだ。サルも集団生活をしていないメスは、子どもを産んでも育てられないという。現在は核家族が多い。子どもを産んで育てるとなると、全ての負担が母親にかかる。イクメンの父親も増えたけれど、「手伝う」範囲を超えることはできないから、やはり母親が子育ての中心であることは変わらない。

 泣き止まないとか、言うことを聞かないとか、熱が出たとか、けがをしたとか、絶えずイライラすることが起きるから母親はパニックになる。パニックになるばかりか可愛いはずの子どもが憎悪の対象にまでなってしまう。イライラをダンナにぶつけてしまい、夫婦ケンカが絶えないという家庭もある。最大の悲劇は憎悪の元である子どもを抹殺してしまいたくなることだろう。

 そんな事件を耳にすると、大家族で暮らすことが人間社会には必要なことかも知れないと思う。家族が多ければストレスも生まれる。干渉しないようにしているつもりでも、目に付けばつい口に出ることもある。親子でも夫婦でも、相手のためにと思ったことが逆に相手を傷つけてしまうこともある。人間社会は難しい。難しいけれど、人の間にしか幸せは生まれないから、乗り越えるしかない。きっとそれは死ぬまで続く、人間の宿命なのだろう。

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巨星墜つ

2016年02月10日 18時41分37秒 | Weblog

 偉大な人が亡くなった。「巨星墜つ」は三国志の中で、諸葛孔明が亡くなった時をいう。天を仰いだ時に大きな星が落ちるのを見て、孔明が亡くなったことを知るという話だったと思う。大和塾の設立以来、浅学菲才な私に付き合い導いてくれた、先輩が亡くなった。市大病院では「これ以上の治療は出来ない」と言われ、近くの病院に転院したばかりだった。

 満州事変が勃発した昭和6年生まれなので、「戦争と共に成長し、戦争の悲惨さも敗戦の惨めさも、体験してきた」と何度も語った。60年安保は20代の最後の年だったから思い出すことも多かったはずだが、「凄い戦いだった」と言うくらいで、多くを語らなかった。安倍政権が誕生して、国の行く末をとても心配していた。「絶対に戦争してはいかん」と。

 前にも書いたが、米寿を迎えた女性の塾生は「こんなに知識の豊富な人に出会ったことがない」と絶賛していた。特に漢文や漢詩に造詣が深く、大和塾の季刊誌『風』の巻頭言にはなくてはならない人だった。「戦前に教育を受けたからだろう」と謙遜していたが、工学部の出身なのに文科系にめっぽう強く、奈良時代から明治・大正までの文学にも精通していた。

 「助平は長生きのコツ」と、時々思わず笑ってしまうような下ネタ話を聞かせてくれた。気取らず分け隔てもなく、塾生のみんなから慕われ尊敬されていた。カミさんを先に送り、息子さんとふたりの生活だったけれど、お互いを気遣う様子がよく分かった。先日、見舞いに行った時、「7月3日が季刊誌『風』の最後の号になるから、何か書いてくれないと困るよ」と言うと、その時は「そうだな、考えておく」と言ってくれた。

 そしてすぐ、原稿だといってメールが送られてきた。「テカントショペンハウハウエルの三哲学者の頭文字に由来する(未完)」。デカンショ節のことだろうが、何を伝えたかったのだろう。ケイタイの画面が見えなくなっていると息子さんは言っていたが、デカルト、カント、ショウペンハウエルと長く打つこともつらかったのかも知れない。知の巨人に安らかな眠りを!

 明日は仙台から次女一家が、また長女一家も我が家にやって来るので、ブログは休みます。

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北朝鮮が弾道ミサイルを打ち上げた

2016年02月09日 17時38分24秒 | Weblog

 北朝鮮が弾道ミサイルを打ち上げた。この国を「正義」などとは誰も思っていないだろう。50余年前は「同じ凶器でも、誰が持っているかが問題なのだ」と平気で言っていた人たちがいた。今でもアメリカでは、「銃を持つのは防衛のためだ」と多くの人が思っている。防衛のためにミサイルが必要なら、「どこの国も自国を守る権利がある」のだから、ミサイルを持っても当然なのに、「オレはいいが、オマエはダメ」と言われて納得するバカはいない。

 誰が持つかが大事なことではない。凶器は誰が持っても相手を殺傷する。「オレは理性があるが、理性のないヤツはダメ」と言うのは横暴でしかない。凶器を無くし、みんなが安心して暮らせる世界を築く論理ではない。50余年前、高校の同級生が私に会いに来た。「共産党こそが正義」と彼は言う。高校では新聞部や生徒会で、学校に批判的だった私を見込んでオルグに来たのだ。アメリカ軍のベトナム空爆は許せないが、ハンガリーへのソ連軍進攻も許せない。私はキリストに傾倒していたが教徒にはなれなかった。そして殺し合うことは許せなかった。

 「革命が成功したらお前は死刑だ」と捨て台詞を残して彼は去った。「科学は善だが、悪用するヤツがいる。共産党は悪用させない」。どうしてこうも単純なのかと理解に苦しんだ。科学は道具で、善でも悪でもない。原発は悪だが、天気予報は善と言えるのか。天気予報という科学も軍事に利用されて急速に発展したし、宇宙開発もパソコンも軍事目的で伸びてきた。科学は常に軍事と結びついている。

 防衛省が大学の研究に資金援助するのを拒否するだけでなく、科学が得たものを見張ることも大事なことだ。科学者には研究に没頭し、それがどうなるのかを考えない人もいる。科学は人に役立つが、人を破壊することもある。善と悪は裏表である。人はどちらにもなる困った存在だ。そう思わなければ、一方的な「善」の押し売りになってしまう。

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姪っ子の義父が亡くなった

2016年02月08日 17時16分23秒 | Weblog

 姉の娘である姪っ子の嫁ぎ先のお父さんが亡くなった。薬をもらうために出かけた病院で、立ち上がった拍子に転倒し頭を打った脳内出血が原因だと言う。「病院なのに、何とかならなかったの?」とビックリする。手術も出来ず安静にして時を待つだけであった。4日に倒れ、翌日には医者が「身内の方々に知らせた方がいいでしょう」と言ったというから、先は長くないとは感じたけれど実際にそうなってみると、人がこの世を去る時は呆気ないものだ。

 お父さんは6人兄弟の長男というだけに、参列する親族は多かった。お父さんの子どもは姪っ子のダンナとお姉さんのふたりだが、お姉さんの方には孫もいるから、お父さんにとっては可愛くて仕方ない曾孫ということになる。姪っ子は3人の男の子を生んでいるがまだ誰も結婚していないので、もっぱら曾孫の4人に注目が集まっていた。棺に横たわる大祖父の姿、火葬されて骨だけになったものを不思議そうに見ていた。

 姪っ子の子どもたちはもう随分大人だが、一緒に暮らしてきただけに思い出も多く、目に一杯涙を貯めていた。それでも長男は長男らしく振舞い、次男と三男は支える側に回って、祖母と両親の手伝いをてきぱきと行っていた。私が祖母を送った時は小学生であったし、両親と祖父の時は高校生だったが、今の彼らのように務め果たしていたとは思えない。ただ、死を呆然と見送っていて、何の感情もなかった気がする。父が亡くなった時は、背負うものがなくなった、これからはひとりで生きていくことになる、そんな気持ちだった。

 死は年齢順に訪れるわけではないが、誰にでも平等にやって来る。私は今年で72歳になる。まだもう少し生きなくてはならない。それでも10年も20年も長く生きていたいとは思わないから、その準備をしておきたい。姪っ子の義父のように、「あっという間に幕を引きたいね」と妹のダンナと言い合って笑った。

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どうして議員報酬を上げなければならないの?

2016年02月07日 16時32分32秒 | Weblog

 名古屋市議会の自民、民主、公明の3会派が、議員報酬を4月から650万円余増額する共同提案をするという。現在は800万円だから一気に年収が1,450万円となる。議員は「まだ少ない」と言うが、一般市民から見たら凄い高額である。実はそれだけではない。議員には月額50万円の政務活動費が支給されている。

 政務活動費については、兵庫県議会の野々村元議員が涙ながらに行った記者会見が記憶に新しい。彼は「政務活動費は微々たる問題だ」と言った。それくらいにしか思っていなかったので、1年間に200回近く城崎温泉に調査に行ったと報告書に書いてしまったのだろう。報告書には領収書を添付しなければならないが、交通費は窓口で切符を買っても領収書は発行されないので金額さえ合っていればよいので、これを悪用したのだ。

 政務活動費は会派に支給されるが、ひとり会派なら個人となる。使い方はより慎重になるのが普通だが、彼は平気でだまし取った。愛知県議会の議員も事務所の家賃や車のリース料あるいは人件費に政務活動費を当てていて、オンブズマンから返還するように訴えられているが、「正当な支出だ」と争う姿勢だ。月額100万円近い議員報酬があるのに、「まだ足りない」と言うほどの議員活動をしているとは信じられない。

 首長や議員の報酬が何を根拠に決められるかと言えば、「近隣の動向」である。人口の同じくらいの自治体で差がないようにしているのだ。だからどこかが上げれば当然それに見習うという訳だ。河村名古屋市長が「高すぎる」と言ったのは正しいと思う。普通に生活して、普通に調査したり研修に出かけたりしても、月額50万円も使い切れないだろう。それでも年収800万円もある。

 議員は奉仕する人だったから、議員で財産を増やす人はいなかったのに、議員報酬が高くなったら逆に、私腹を肥やす人が多くなった。これも有権者が黙っていることに最大の原因がある。本当に日本の有権者は「怒る」ことがない。どこまでいっても他人事のように見ている。さて、今晩は通夜で、明日は葬儀なのでここまで。

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絶望に陥る時

2016年02月06日 17時40分24秒 | Weblog

 中国で子どものいじめが問題になっている。中国経済を成長させてきたのは低賃金の労働力だ。農業から工業へと変わる時は、工場で働く人が必要になる。産業革命が起ったイギリスでも労働力を確保するため、農場から農民を締め出し工場へ集めた。日本でも「金の卵」ともてはやして、中学を卒業した子どもたちを都会へと送り込んだ。同じことが中国でも起きているが、一人っ子政策のために日本のような若い労働力ではなく、農民が出稼ぎで都会へやって来ている。

 出稼ぎの農民は子ども連れもいて、都会の学校は超満員だそうだ。学校に収容しきれず建物の廊下を教室代わりに使っていた。先生も足りないので資格のない人が教えていた。経済の悪化で親が工場を変わる度に子どもは転校しなくてはならず、孤立していく子どもが増えているそうだ。そしていじめが起きる。移動する親の貧しい子と比較的裕福な子との間に軋轢が生まれ、暴力事件が増える。

 共産党政権の中国だが、計画経済はどこにも存在しない。貧富とか身分の差を無くすための「革命」だったのに、政権の側にいる人は富、疑問を投げかければ「反動分子」と言われ逮捕される。これで暴動が起きないはずがないが、警察と軍隊を握っているから共産党はどうにか政権を維持している。それでも長くは続かないだろう。どんなに政権がインターネットを制限しても、情報は必ず伝達されていく。どんな形でどんな風に中国が変わるのか興味深い。

 それにしても、日本でも悲惨な事件が後を絶たない。多治見市の市役所の6階から中学2年の男子が飛び降りた。自殺なのか事故なのか、警察は調べている。幼い子どもを殺してしまう親がいるかと思えば、子どもが両親を殺したケースもある。絆が強いはずの親子間でこんなことが起きるのはなぜなのだろう。姜尚中さんは「絶望がはびこってきている。つながりを失った時、人は絶望に陥る」と指摘する。産業が発展し、人々は豊かさを手に入れたのに、苛立ちや不安やそして絶望が増してしまった。ウーン?

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