友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

元気ならそれでよし

2016年02月05日 19時00分43秒 | Weblog

 この地域の新聞販売店が発行しているA4判1枚の瓦版がある。その記者から市制10周年事業で補助金を申請した5団体を記事にしたいと連絡があった。玄関のドアを開けると、「やっぱり」と言う。「市役所の人は何も教えてくれなかったけど、表札を見て、もしかしたら編集長ではと思ったので‥。ご無沙汰しています」とあいさつする。まだ私が地域新聞を作っていた時に、会ったことのある女性だ。

 彼女の上司は可児市に住んでいて、まだ可児花フェスタが造成中の頃、現場を見せてもらったことがある。何度かお酒も一緒に飲んだ。皆元気でやっているのは何よりだ。取材することはあってもされることは稀だが、彼女の方が「編集長の前では緊張する」と言う。ついついよもやま話になってしまった。「この後、シクラメンの会の打ち合わせに行かなくてはいけない」と断ると、「シクラメンの会って何ですか?」と聞いてくる。

 さすがに記者根性はあるようで、情報は出来るだけ収集しておく心がけがいい。何気ない話からヒントをいただくことはよくある。記者ならただ取材するだけでなく、雑談しながら取材で疑問に思ったことを確認したり、さらに別のネタがないかアンテナを揚げておくことが大事だ。大手の新聞と違って、地域に根付いた新聞作りの基本は信用にある。大手の記者は「書いてやる」という姿勢だが、地域新聞はそういう訳にはいかないのだ。

 シクラメンの会の打ち合わせの雑談で、地元の人は「あれ」とか「○ちゃん」とか名前を挙げてうわさ話をするが、全部は分からなくても半分以上は分かる。10年間地域を回ったおかげだ。議員の時、議会報告の文書を作って1戸1戸回ったので、どこの家の玄関に何があったかも覚えていた。それが名前が出てこなかったりして、かなり忘却の彼方へいってしまった。

 「元気ならそれでよし」と、お互いを慰める。ところがシクラメンの会は今月の20日(土)なのに、別れ際に「それじゃー、21日に」と言う人がいた。「おいおい、頼むよ。当日の役割分担も忘れずにお願いしますよ」と言い合って大笑いした。

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不思議な気がする

2016年02月04日 18時09分23秒 | Weblog

 今日は立春、そう思うからか、確かに暖かい。元プロ野球選手の清原和博さんが覚せい剤所持で逮捕された。以前からウワサがあったのでやっぱりという気がする。それにしても、警察もテレビ局も週刊誌も、相当な執念で追いかけていたことが分かった。マンションの部屋の中を常に遠くから見ていたはずだ。清原さんのブログを見ると、寂しさがよく分かる。弱い人は何かに頼りたくなるのだろう。

 国会でのやり取りを聞いていると、安倍首相は強い人だと思う。何が何でも憲法を変える強い意志を持っている。安倍首相に近い稲田朋美政調会長が、「7割の憲法学者が自衛隊の違憲性を指摘している」と首相に向かって質問した時は、オヤッと思ったが、「現実に合わなくなっている9条をこのままにしておくことこそが立憲主義の空洞化ではないか」と言うのを聞いて、なるほどそういう手で来たかと合点した。

 これまでなら、憲法違反の自衛隊を無くす論議だったものを逆手に取って、自衛隊という現実があるのだから、憲法を現実に合わせるべきだという指摘である。夏の参議院選挙に向けて「憲法の論議を深めていきたい」と言う安倍首相の思いを具体化したわけである。どこの国も自分の国を守るのは当然の権利だ。だから自衛隊は存在して当たり前である。だったら、現実に沿わない憲法は改めるべきだと。おそらくこの論法で国民の世論を喚起していくのだろう。

 ナチスドイツは第1次世界大戦を知らない世代が中心になって支持を広げていった。第2次世界大戦後から20年ほど経た1960年代の末、世界中で学生たちがベトナム反戦を訴えてストライキをした。大学を封鎖し、街角にバリケードを築き、自由区を作った。ドイツも例外ではなかったが、国家の圧倒的な力の前に叩き潰されてしまった。ドイツの学生たちは地域に戻り、やがて環境問題に取り組み、「緑の党」を立ち上げていった。

 日本の学生たちはどうしたのだろう。団塊の世代はいつしか企業戦士となり、激しく抵抗した過去は思い出となった。第2次世界大戦も、60年70年の闘争も、「水に流す」ように、どこにも論争はない。不思議な気がする。

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僧侶は職業だと思いますか?

2016年02月03日 18時21分08秒 | Weblog

 住職が「僧侶は職業だと思いますか?」と言う。考えてもみなかったが、言われてみれば給金を得る仕事であれば、需要が無くなれば成り立たない。今、僧侶がしている主な仕事は葬式や法事でお経をあげることだが、僧侶を呼ばない人も増えているから無くなる可能性はある。「実は僧侶も皆さんも、誤解しているのですよ」と住職は言う。「僧侶が悪いのですが、皆さんもお経をあげてもらって、その対価としてお金を払っているでしょう」と指摘する。

「じゃー、お経の意味を知っている僧侶が何人いると思いますか?もし、法事などでお話する機会があったら、『今、あげていただいたお経は何と言っているのか教えてください』と聞いてみてください。ありがたい教えが書いてあるとは言うかも知れませんが、1つひとつの意味まで分かっている坊主は少ないでしょう。意味も分からず読み上げている坊主が多いのですから」。えっ、そんな、ウソ!と思ってしまった。

 「昔の坊主は漢文を読み、漢詩も作れました。今、そんなことが出来る坊主はほとんどいないでしょう。明治までは浄土真宗を除く宗派では結婚はしていません。僧侶は出家の身です。世俗を離れた求道者です。ところが仏教を恐れた明治政府は、世帯を持つことに口出しないとしたのです。陰から奨励したようなものです。結婚して子どもが生まれれば、死んでも極楽へ行けるならいいとは思わない。決死の僧侶を無くしたのです。朝鮮を合併した時も明治政府は、僧侶に世帯を持つように奨励したのですよ」。

 住職と話していると時間の経つのを忘れてしまう。「釈迦は世界を救うなどとは一言も言っていません。釈迦は自分の悩み、なぜ生まれたのか、どういて生きているのか、その繰り返し問い続けた人です。皆さんは寺の祭壇に飾られた金ピカの像を見て、その豪華さから釈迦を神様のように思っていますが、釈迦は人の本質を見極めたいという自己探求の人です。僧侶は釈迦を手本とする求道者なのですが、そう徹することが出来ませんね」。

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前進座の『夢千代日記』を観る

2016年02月02日 19時10分43秒 | Weblog

 今月の名演は、前進座の『夢千代日記』。最後部に近い席だったが、さすがに前進座だけあって役者の声はよく聞こえた。舞台の場所は兵庫県の北部にある湯村温泉。バスツアーで行ったことがあるが、それは山間の何もないところだった。街を歩くと夢千代記念館(?)のような建物があり、NHKテレビで放映された吉永小百合さんの写真やその時使われたセットが展示されていた。

 この時のテレビは見ていなかったので、『夢千代日記』がどんなものなのか知りたいと思った。主人公は広島で生まれた。原爆の3日後に生まれた「体内被爆児」である。母親は故郷である湯村温泉に戻り置屋で生計を立てていたが、7年前に白血病で亡くなった。夢千代もまた白血病で、時々めまいで倒れたりしている。被爆者は病気がうつるとか、ケロイドが気味悪いと差別されてきた。人を愛することも結婚することも出来ず、寂しい思いを抱いて生きている。

 置屋で働く女性にもそれぞれに物語がある。満州から引き上げる途中、我が子を殺した女のところに厚生省の役人が、中国残留孤児を連れてやって来る場面では泣かされた。我が子を殺さなければならなかった母親、死に切れずに孤児となって育てられた息子が「首の傷跡を見てくれ」と言う、母親はただ泣くばかりだった。決して望んだわけではないのに、人生には時々耐えられない悲劇が舞い落ちてくる。

 芸者が我が子として育てている子を、実の母親が「返してほしい」と言ってくる。実の母親は金持ちなので返せば大学まで行けるかも知れない、そんな迷いを持ちながらも、生きがいである子を手放すことが出来ない。それを知った子は母親に抱きつき、ふたりはオイオイと泣き崩れる。泣ける場面がここにもあった。

 芝居を観終って、何を訴えたかったのかと思った。夢千代は私たちと同時代の人。置屋で起きる様々なことはあの時代にどこかであったことだ。戦争という悲劇がこの芝居のテーマなのだろうか。そう言えば、湯村温泉に吉永小百合さんをモデルにした夢千代像があったが、その台座には「恒久平和」と刻まれていた。

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若い人は夢を追わない

2016年02月01日 17時32分55秒 | Weblog

 満州事変が起きた昭和6年生まれの先輩が、入院していること、そして見舞いに行ってきたこと、さらに昨日の朝7時前に、「例会は今日だったか?」と電話があったことを報告した。「あんなに博識な人を見たことがない。頭のいい人でも病気には勝てないのね」と米寿の女性が称える一方で落胆して言う。「すぐに見舞いに行きたい」とも言うが、「まずは息子さんに様子を聞いてからにしましょう」と提案する。今日の大和塾の例会のことだ。

 「見舞いに来るな」と言っていた人が突如、「見舞いに来てほしい」と言ったのだから、きっと自分でも何かを感じているのだろう。しかし大勢で行けばそれだけで疲れてしまうし、そうかと言って、誰も来ないのも寂しいものだ。昨日の朝の電話からすると、出来るなら見舞いに顔を出してあげたい気がする。「国のため天皇に命を捧げるように」と教育され、終戦を迎えた翌月の朝礼では「これからは民主主義の時代」と言われ、大人はなんといい加減なのだと憤慨した世代。

 米寿を迎えた女性は「男の人と女の人は教育の中身が違っていた」と話す。そんな話から今進められている男女共同参画についても、男女の不平等を解消することが家庭における男女のあり方に偏ってしまっていること、さらに言えば、3月6日のフェスティバルで大和塾が取り上げる「性同一性障害」のように、どちらの性と決められない現実があることへと話が広がっていった。

 さらに、成人たちの言葉が話題になった。理想の人は?と聞かれて、「両親と答えているのはありがたいことかも知れないが、それでいいのかなと思った」と言う。「感謝という言葉もみんなが口にしていたけど、人生を終わろうとする人ならともかくこれからの人なのに」と手厳しい。若者たちが現実的になり夢を語らないことに、大人たち、特に戦後世代は不満なのだ。

 岩波書店発行の『私の戦後民主主義』はとても共感できる。誰の文章を読んでも共有する体験があり主張がある。米寿の女性の言い分ではないが、「自分の道を自分らしく生きればいい」、どうやらこれが私たち世代の結論なのかも知れない。

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