友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

男と女の間は「愛」である

2018年05月10日 17時53分57秒 | Weblog

  朝から強い風が吹いている。それも冷たい風だ。これではルーフバルコニーに出て作業するのは無理だ。そうなると途端にやることが無くなってしまい、本でも読むかと開くのだが、文字を追うと睡魔が襲ってくる。「眠い時は寝る」とフトンに入るが、どういう訳か眠りにつくことが出来ない。起きてコーヒーを飲み、何しようかと思いながら、グデグデと過ごしてしまう。

 どこそこの芸能人が女子高校生に無理やりキスをした。どこそこの町長が宴会で女性にキスをした。これをネタにお笑いの人が、「私の友人も好きになった女性に無理やりキスしたんです。舌を相手の舌に絡ませようとしたら、舌を咬まれて、長い間腫れあがって泣いていました」と笑わせていた。「セクハラ罪はないですからね」と、麻生財務大臣は発言して非難を浴びているが、やっぱりこの人は置かれている立場を理解しない人だ。

 好きな相手とキスをする。好きな相手を抱きしめる。それは当然のことだと思うけれど、相手が受け入れてくれることが前提である。相手が既婚者であっても、自分が既婚者であっても、認め合っているなら、愛情表現として受け入れられる。「キレイだね、さわっていい」と言って、相手が不愉快ならセクハラになってしまう。「愛」を確かめるには、相手を認める「愛」が自分にあるかだと思う。

 こういうことを言うとバッシングを受けるかも知れないが、キリストを産んだマリアは処女だったのだから、不義の子を身ごもったことになる。婚約者は嘆き悲しんだ。しかし、マリアは神様が妊娠させたと言い切って納得させた。その後、ふたりは結婚して何人かの子どもを産んでいるが、キリストだけは別格の存在だった。

 男と女の間は、互いが納得しているか否かである。他人がどうこう言うことではない。愛は美しいのに、妬む人には醜く見える。中学からの友だちはペースメーカーの手術を受けて、友だち以上恋人未満の女性と別れた。彼はもう「老いらくの恋」を忘れてしまったのだろうか。

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「言った」「言わない」の域ではない

2018年05月09日 17時37分38秒 | Weblog

 「言った」「言わない」は、録音テープでもなければ実証は難しい。今朝の新聞に、統合幕僚監部の30代の3等空佐が参議院の小西洋之議員に、「あなたがやっていることは国益を損なうようなこと」「国のために働け」「ばかなのか」「気持ち悪い」と暴言を浴びせたので、訓戒処分を受けたと報じられていた。

 「お前は国民の敵だと言った」と主張する小西議員に対し、防衛省は3等空佐が「言っていない」とし、「シビリアンコントロールを否定するものではない」と説明する。3等空佐といえば将校である。軍人が国会議員の国会での発言に対して、直接に文句を言ったのにこの程度の処分なのかとビックリする。それだけ自衛隊の幹部の中には野党に対する嫌悪が強いのだろう。

 小西議員の名前で思い出した。『別冊正論31』に、同じ参議院の有村治子議員と編集部とのやり取りの記事が載っているが、そこに名前が出ていた。「安倍首相は小西議員の国会質問に対し、『自分と考え方がの違う人の存在を許さない、そうした狭量な考え方自体が極めて問題、きわめて危険なものを感じる』と諭された」とある。

 安倍首相の言う通りだと思う。それはまた、安倍首相自身も同じことが言える。「国会は論議の場」と言われるけれど、ヤジの応酬で聞き取れない。採決を取れば当然多数である政権派が勝利する訳だから、議論は何の意味もないように見える。確かにその通りだが、そのやり取りが報道されれば、国民は次の選挙の判断材料にする。だからこそ、マスメディアをいかにコントロールするかに腐心している。

 『正論』や『WiLL』や『Hanada』が書店に並べられている。ゾッとする内容の雑誌だが、意外に若い人が手にしていた。右も左も存在することが健全な社会だろう。しかし、国会議員に軍人が暴言を吐くことまで許される社会は、気にくわない連中を武力で鎮圧する方向へ進むことになるだろう。

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「ただ酒は人を堕落させる」

2018年05月08日 17時29分14秒 | Weblog

  彼女の名誉のために書いておかなくてはならない。昨日の3万円は戻って来た。しかもイチゴのおまけまで付いていた。逆に出費させてしまったようで申し訳ないと思う。どうしてお金が必要となったのか、足らなかった2万円はどうしたのか、聞くのは止めた。誰にでも事情がある。相手から話してくれるならともかく、自分から問い詰めるようなことはしたくない。

 倉橋由美子さんの『大人のための残酷童話』は怖い話だが面白い。我が家からも見える養老山脈、その山の谷に養老の滝があり、そのいわれはこの地方の人ならだれでも知っている、親孝行の息子が滝の水を汲み上げるとお酒に変わる物語だ。ところが倉橋さんは、「ただの酒が無尽蔵に湧いて流れているという評判を聞いた酒好きの者どもが、百姓も漁夫も商人も、その業を棄てて養老の滝に群がり、そのまま酔死するもの数知れず、谷は悪臭に満ちている」。

 そして「(それを知った)天子様はお怒りになって、養老の滝に近づくことを禁じるとともに、かの樵の親子を捕らえて斬罪とされましたが、禁制の谷を目指す者は跡を絶ちません。(略)養老の滝の周囲に柵をめぐらし、関所を設けて黄金を徴収するに至って、騒ぎはようやく止みました」と語り、教訓として、「ただ酒は人を堕落させる」と結んでいる。

 先日、若い社長と話す機会があった。お酒の話になったので、「市長選挙に落ちて、何もかもこれで終わったと思ったら、解放された気分になって、毎晩お酒を頂いています」と言うと、「いや、意外でした。お酒は余り飲まない方だと思っていました」と言う。「正義感の強い真面目人間、そんな風に見えていた」と言う。「ありがとう、感謝します」と言いたかったが、「もう、若くないからね」と言ってしまった。

 15日は「効き酒」会へ招待されている。それこそ「ただ酒」を飲むことになる。天罰が下りませんようにと祈っておこう。

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亡くなったダンナへの義理と思って

2018年05月07日 17時22分45秒 | Weblog

  朝、出かけようとしていたら、ひとりの女性が訪ねて来た。「どなたですか?」と聞くと、名前を言われた。以前、私の選挙を応援してくれた人の奥さんだ。いよいよ来たかと、要件を聞く前に分かった。夫は人の好い性格で、何でもやってくれた。ただ酒を飲むと飲まれてしまう傾向があった。大晦日に除夜の鐘をみんなで突きに出かけた時も、酔っ払って溝にはまり大けがをしたり、酒の席ではみんなに迷惑をかける人だった。

 出勤途中に交通事故に遇い、亡くなられた。まだ、若かったから奥さんは苦労されたと聞いた。生きていた時は酒癖の悪さで、亡くなってその苦労から解放されたのに、生活は苦しかったようだ。友人から「金を借りに来るから、絶対に貸さないように」と聞いていた。「どうされました?」と尋ねると、「お恥ずかしい話ですが」と言う。間違いなく金の無心である。「どうしても5万円がいるので、必ず明日には返しますから、今日だけ貸してもらえませんか」と話す。

 カミさんは即座に、「うちはカードで買っているので、現金は置いていないの」と言う。私は急いで3万円を封筒に入れ、「とりあえずはこれで」と渡す。「2万円足りない。どうしよう。他に頼る人がいなくて」と言う。「とにかく3万円払って、残りは明日に伸ばしてもらったら」と言うと、シブシブ引き揚げていった。「貸したらダメと言われていたじゃないの」とカミさんは呆れた顔で私を見る。「返しに来ないわよ」と畳みかける。おそらくそうだろう、分かっている。

 議員だった時も幾人かが金の無心に来た。世話になった人には恩義もあり300万円貸した。ひとり暮らしの老婆は「正月を迎える用意も出来ない」「電気を止められる」などと理由をつけ、「年金が入ったら必ず返す」と借用書まで書いてあった。1度金を借りた人はまた借りる。治らない病気である。兄が保証人になって材木屋を潰したので、絶対に保証人にはならないと誓った。金の貸し借りは人間関係を壊す。分かっていたが、亡くなったダンナへの義理と思って渡した。

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決して同じ日は来ない

2018年05月06日 18時31分44秒 | Weblog

  

  ジャスミンの白い花が咲き始めた。バラも次々と咲き、クレマチスも咲こうとしている。アジサイはまだ先だろうが、それでも準備が出来ている。チューリップが終わった我が家のルーフバルコニーは、緑深いガーデンへと移りつつある。夏の花を植えるために、土作りをしているが、この際だからと鉢を4個処分した。チューリップを抜いたなら、あと10鉢を処分しようと思っている。

 花たちは正直だ。愛情を注げば応えてくれる。それでも同じように育てているつもりでも、よく育つものとうまくいかないものがあるのはどうしてなのだろう。「誰でも陽の当たる人生ではない。それでも懸命に生きるしかない」とは何かのドラマのセリフだった。人も植物も動物も、生まれたからには皆、懸命に生きている。親は子のために、私は花たちのために、過保護にならないように注意しながら、出来ることをする。

 根気強くなった。焦らないし、結果については「仕方ない」と受け止められるようになった。若い時はストイックな求道者で、絶対的なものにあこがれていた。いい加減なことしか出来ないのに、中途半端さを嫌っていた。けれど、74年目にしてハッキリと、人間とはそういうもの、人間の社会とはそういうもと理解するようになった。だからいい加減でいいということではない。マズイと感じる人間がそれを口にしなければ、歪みはもっとひどくなる。

 武力で政権を奪取すれば、政権を維持するために反対勢力を弾圧する。選挙で政権を得ても、その維持のために躍起になる。国家もそうだが地方自治体も同じだ。いや、組織自体がそういう運命にある。バカバカしいと思いながらも、それが人間社会の宿命であるなら、「懸命に生きる」しかない。緑豊かな初夏、そして猛暑の夏、台風と秋風の季節へと移りゆくが、決して同じ日は来ない。

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子どもの日と怖い童話

2018年05月05日 18時26分01秒 | Weblog

  カミさんの弟が満面の笑顔でやって来た。「可愛いよ」と差し出したのは『初孫 誕生』の箱。金粉入りのお酒セットだった。5月5日の子どもの日に因んで、義弟が用意したのだろう。1か月ほど孫と一緒だったから今は寂しいのだろうが、初孫の写真付きのお酒を配る姿はやはり嬉しくって仕方ない様子だった。『初孫』などという名前のお酒があるとは知らなかったが、それを探し出してくる熱意が半端じゃーない。

 長女のダンナのお父さんも義弟も、70歳を過ぎて初孫が生まれたから、どんなしぐさも表情も可愛くて仕方ないようだ。孫のためなら何でもしてやりたい、きっとそんな気持ちだろう。「初節句は来年する」と話すが、もうどんな風に祝ってやろうかと考えていることだろう。かなり難産だったが母子ともに健康で、ダンナと子どもと3人での暮らしが始まったと言う。

 我が家は女の子ふたりで、生まれた孫は3人とも女の子だから、男の子はどんな風にお祝いするのだろう。私の家にも武者人形はあったが、それは兄の物で、3男の私は他人事のような気がしていた。柏餅やちまきは食べたし、しょうぶ湯にも入ったが、特別に何かすることはなかったように思う。家にあった兄の絵本をよく見ていた。

 よく覚えているのは、那須与一が海に浮かぶ船の扇を射る場面である。とても写実的な武者姿だった。もう1つは童話で、題も筋も記憶にないが、日本の昔話ではなかったと思う。若者の肩の上におじいさんが乗り、両足で若者の首を絞めつけるので、命令されるままに歩く話だった。まだ、小学校に上がる前だから文字が読めるはずもなく、誰かに読んでもらったのだろうが、とても怖いと思った。

 怖いといえば、倉橋由美子さんの『大人のための残酷童話』がある。童話や昔話をヒントにしたものだが、どの話も本当に怖い。それは大人の中に潜む欲望を見るからなのだろう。今日は「子どもの日」なのに脱線した。

 

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ミカンの木とアゲハチョウ

2018年05月04日 17時43分32秒 | Weblog

  ルーフバルコニーには直径が50センチほどの大きな植木鉢が6個ある。南東の隅の鉢にはミカンの木が植えてある。まだ子どもたちが小学生の頃、青虫からサナギになり、やがて蝶になって飛び立っていく様子を見せたくて植えたものだ。けれども子どもたちは余り興味を示さず、青虫やサナギにワクワクしていたのは私だったと知った。

 ミカンの木から2メートルほど離れたところに、サンショウの鉢がある。いつも成長する前に枯らしてしまうが、今年はきれいな若葉が出てきた。するとカミさんはベランダから室内へと鉢を移してしまった。ミカンの木に飛んできた蝶が、サンショウの木に卵を産み付けるのを防ぐためだ。いつだったか幼虫に食べ尽くされ、丸坊主になってしまったことがあった。

 確かにアゲハチョウの幼虫は大食漢で、ミカンの若葉もよく食べる。2羽のアゲハチョウが飛んできて、ミカンの木の周りでヒラヒラ舞っていたらチャンスで、葉をよく観察すると小さな真珠のような卵を見つけることがある。この春に産み付けられた卵は4・5日で孵化する。初めはあまりにも小さな黒いゴミのように見えるが、すぐに鳥の糞かと思うくらいになる。そして次に緑色の青虫に変わる。

 孵化して10日目くらいだろうか、青虫が5センチくらいになると、やがて糸を出して体を固定しサナギになる。そして10日から14日くらいで羽化する。晴れた日の午前中が多い気がするが、室内で育てていた時は夜だった。緑の枝のサナギは緑色だが、植木鉢でサナギになったものは茶色だったから、周りに同化する能力が備わっているようだ。

 サナギの殻を脱いでアゲハチョウになって飛び立っていく時はホッとした気持ちになる。私はただ時々、観察していたに過ぎないのに、「無事に次の子を産むんだよ」と声をかけたくなる。こんな地上30メートルの高所にも、不思議なことにアリは来るし、カマキリも来る。サナギに穴が開けられ、食べられてしまうこともある。青虫の時に鳥に食べられてしまうこともあり、卵の全てが蝶になれる訳ではない。蝶になっても生きていられるのは僅か2週間と短い。

 「バラをやめて、蝶を観察することにした」と一緒に働いたことのある女性が言っていたが、彼女のバラ園はどうなったのだろう。

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私は改憲に反対です

2018年05月03日 18時02分19秒 | Weblog

  日本国憲法を読んだ時、フランス革命やアメリカの独立宣言の精神を受け継ぐ、人類が得た最高の憲法と思った。しかし、そんなふうに憲法を受け止めたのは私のように戦後教育で育った世代だけなのかも知れない。元NHKの気象予報士、半井小絵さんが憲法改正を目指す議員グループの集会で語ったことがインターネットに載っていた。

 半井さんは「無知、無関心だった」と自分を反省し、現実を見て「憲法改正の意義を考えるようになった」と話す。「領土の拡大を目論む国が日本を攻めきたら、今の憲法では守ることが出来ない」と言い、「憲法9条が目に入らぬかと言って憲法を差し出すと敵は攻撃を止めますか?気象予報士的に申し上げると、台風に来るなと言えば、台風はルートを変えることはありえない」と。

 台風は自然現象で、戦争は人間がする行為なので、例えに持ち出すこと自体が間違っている。「無知、無関心」と反省したのだから、もう1歩考えて欲しかった。「日本を攻めてきたら」と必ず改憲派の人は言うが、そうさせないために努力することが政治である。もっと先のことまで考えれば、戦争のない世界を作ればいいのではないのか。私はその方が現実に即していると思う。

 完璧な人はいないし、完璧な国家も存在しない。絶対に正しいと言えないし、絶対に間違っているとも言えない。だからこそ、人の言うことには耳を傾ける必要がある。ソクラテスのように「無知であることを知っている」謙虚さが必要なのだ。不完全な人間が作った国家であるから、他国を支配して富を得ようとする愚かな人間も生まれるだろう。けれど、それに待ったをかけることが出来るのも人間である。

 私は憲法を変えることには反対だ。日本国憲法は人類が目指した理想である。「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(第9条)。

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ボストン美術館『至宝展』

2018年05月02日 18時22分06秒 | Weblog

 午後からは雨になるというので、午前中は鉢からチューリップを取り出す作業に精を出した。鉢をひっくり返してチューリップを取り出し、土に残った根を取り除いてキレイにした土を袋に入れる。作業をしながら、来年はチューリップの栽培を止めるのなら、根が残ったまま土を捨てればいいのにと思う。鉢があるから植えたくなるのだから、鉢を無くしてしまえばいいと思う。6月に仙台の孫娘が来るのに、花がないのは寂しいとも思う。

 気持ちがすっきりしないまま、作業だけは進めた。正午近くなって雨が降り出してきた。午後は友だちの木版画展を観に行き、その足で閉館になるボストン美術館の『至宝展』を観てきた。木版画展は愛好家たちによる小作品を並べたものだが、友だちの作品は先生たちの作品の隣に展示されていたから、グループのリーダー的な存在なのだろう。版画は根気が要るし、刷り上がった時の想像力がなければいい作品にならない。皆さん、凄いなあーと感心する。

 事情は知らないが金山にあるボストン美術館は近々閉館になる。その閉館前の企画展で、コレクターと作品が組み合わされた展示になっていた。事業家が成功するとその財力をアートの蒐集に向けるケースは多い。個人が持っていても自己満足になってしまうので、美術館に寄贈し多くの人々に鑑賞してもらうことで意義を感じている。中国絵画の「九龍図巻」は10メートルを超える大作で、9つの龍が見事に水墨で描かれている。

 フランス絵画のコーナーには美術の教科書に出てくるようなモネ、セザンヌ、ゴッホなど身近な作品が並ぶ。こうして観るとコローの風景画は秀作だと感じた。昨夜もBS日テレの『ぶらぶら美術・博物館』で、横浜市立美術館で開催されている「ヌード」を取り上げ、西洋美術が女性の裸体にこだわってきた歴史を解説していた。ヌードなら描いてもいいなという気になった。

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「メーデー」は死語になったのか

2018年05月01日 17時39分07秒 | Weblog

  「メーデー」は死語になったのだろうか。「何千、何万の労働者が結集!」などと昔はニュースで取り上げられていたのに、最近は見ないし聞かない。私が教員になった頃は、メーデーは祭典に近かった。集会に参加した後、みんなで飲みに行っていた。もともとヨーロッパでは夏の訪れを祝う祭典だったのだから、先祖帰りしたということなのかも知れない。

 「メーデー」が労働者闘争のイメージになったのは、1886年5月1日にアメリカの労働組合が指導した8時間労働制を要求した統一ストから始まる。今では保守色が強いアメリカだが、当時はかなり労働組合が強かったようだ。当時は1日12時間から14時間も働かされていたのから、怒り心頭は当然だっただろう。ヨーロッパから移住してきたマルクス主義者も大勢いたという。

 第2次世界大戦後、ヨーロッパ諸国の没落でアメリカは世界の覇者となった。アメリカは核を持とうとする非同盟国に「核を持つな」と言う。同盟国の核保有も本当は気に入らないのだろうが、敵対する国の核保有は絶対に許さない。「アメリカが持っているのに、どうして他の国が持ってはいけないのか」とアメリカに言うような国はすぐに潰されてしまう。同盟国なら許すのであるから、世界中がアメリカの同盟国になってしまえばいい。そうすれば「非核」という言葉も死語になるだろう。

 爽やかな5月1日。青空にコイノボリが揺れている。女性の脚のように美しい。そっと撫でてみたくなるが、またきっと「セクハラ」と言われそうだ。レスリング協会のセクハラ・パワハラ問題は内閣府の調査でも認められた。トップの座にいると、自分に逆らう者は気に入らない。どこの組織でもそんな小権力者がいるものだ。誰もが仲良く、清々しい5月の風を気持ちよく迎えることは出来ないのだろうか。今日、中学の担任の奥さんの実家に手紙を書き、クラス誌を送った。

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