冷戦終結のきっかけとなったベルリンの壁崩壊(1989・11・09)から20年が経過するので、新聞等でも特集が組まれるのを見かけることが多くなりました。もとより永続的なシステムはないのですが、子供の頃から、軍拡・軍縮やデタント、恐怖の均衡、包囲や関与政策、社会主義と社会民主主義、進歩的知識人など、さまざまなキーワードが冷戦構造の文脈の中で語られるのを聞いて育った私にとって、ショックは決して小さくありませんでしたし、歴史は動くものであるという事実を初めて知った衝撃的な瞬間でもありました。
かつての日本の政治風景も、まさに世界の冷戦構造をコピーしたかのような様相でした。自民党の一党支配は冷戦構造を前提としたものと言えます。中共成立から暫くは社会主義の現実の脅威があり、保守合同で55年体制が産み落とされた裏では、アメリカ(CIA)から資金が拠出されていたと言われていますし、その後の長い間、当時の野党第一党だった社会党が、イギリスやドイツの社会民主主義的な政策を掲げるのではなく、明らかにマルクス・レーニン主義的であったために、自民党の敗北は自由主義・資本主義の敗北であり、日本の社会主義化を意味するものだと受け止められ、却って圧倒的・安定的な支持を集めてきたというのが事実だろうと思います。
その自民党が一時的にせよ野党に転落したのは1993年のことで、そこから長い凋落期に入り、一時的に小泉人気で復活したように見えましたが、その勢いを支えきれず、ついに与野党逆転に至ったのは、そもそも冷戦構造の崩壊に起因すると思います。
自民党は、良くも悪くも派閥政治と批判されてきた通り、それこそ右派から左派まで、あるいは自由主義的な発想から社会民主主義的な発想まで、さまざまな主義・主張を取り揃えたヌエのような存在で、派閥間の調整を通してさまざまな政策を繰り出し、折からの高度経済成長を背景に、強い経済が産み出した富を公共投資や農業などの遅れた分野に助成する形で再分配することによって、比類なき平等社会を実現し、野党がつけ入る隙を与えませんでした。実際に、農業などへの補助金や地方への公共投資が妬みを買うことはあっても、都市部のサラリーマンも経済成長によって豊かさを実感することが出来ましたし、終身雇用と年功序列によって安定した人生を確保することができたため、地方間格差や職業間格差が議論になることはありませんでした。仮に問題が発生しても、成長する経済のもとでは、問題が大きくなる前に自然に解消していたと言えましょう。
そういう意味で、内では成長する経済のもと、外では冷戦と日米安保という固定化した安全網に守られて、自民党は何もしないでも文句を言われることはなかった。否、誰からも文句を言われないように、各種利害を調整しながら、皆が等しく潤うようにあまねく富を再分配していただけのことでした。先の施政方針演説で、成長戦略がないと批判された鳩山さんが、自民党からそんなことを言われたくないと切り返されたのは、まさにその通りであろうと思います(鳩山さんには、自民党との違いを浮き立たせるために、もうちょっと別の言い方があっただろうと思いますが)。
自民党が窮地に陥り批判に晒されるようになったのは、自民党政治を支える富の再分配システムの源泉である富が枯渇したから、すなわち日本の経済成長が止まってしまったからです。日本の経済成長が変調を来たしたのは、バブル経済が崩壊し、バランスシート調整に戸惑っている間に、冷戦構造が崩壊し、それまで敵視され停滞していた東欧や中国などの東側諸国が開放政策に転換し、世界中から資本を集めて成長し始め、経済における競争環境がどんどん変わってしまったからです。冷戦構造の崩壊によって、真の意味でのグローバル化が進展し、インターネットを中心とするIT革命がそれを加速しました。
小泉さんを継いだ安倍さん、福田さんの総裁選びは、ケインズが言うところの「美人コンテスト」であり、そこでの自民党政治家に「勝ち馬志向」症候群(バンドワゴン効果)があった(山口二郎著「政権交代論」)ことは事実であり、保守合同を知る政治家が一線を引き始めて派閥政治が弱まったことと歩調を合わせるように自民党が弱体化したと言うのも、幕末維新の白刃の下をかいくぐった政治家が引退して日本が戦争に向かう暗黒の時代に突入したという歴史的事実と符合して、興味深いですが、いずれにせよ自民党が賞味期限を過ぎたと揶揄されるほどの環境変化があったことは間違いありません。
この環境変化は不可逆的なものであり、自民党は再生なくして復活はあり得ません。小泉さんの構造改革も、こうした歴史的文脈の中で私は理解して来ました。冷戦構造とその元での経済成長によって可能となった豊かさのシステムとマインド・セットを克服できるかどうか、これはひとり自民党だけではなく、現在の政権党や私たち国民に突きつけられた課題でもあります。
上の写真は、壁は壁でも、2008年に世界遺産に指定されたマレーシア・マラッカのセント・ポールの丘の麓にある、当時、東洋一の堅牢さを誇ったという、ポルトガル時代以来のサンチャゴ砦の一部です。その後、イギリス軍に破壊されたため、現在、残っているのはオランダが再建した門だけなのだそうです。マラッカには、ポルトガル、オランダ、イギリスによる統治の歴史が重層的に折り重なり、さながら世界史の縮図を見るようで、なかなか興味深い。
かつての日本の政治風景も、まさに世界の冷戦構造をコピーしたかのような様相でした。自民党の一党支配は冷戦構造を前提としたものと言えます。中共成立から暫くは社会主義の現実の脅威があり、保守合同で55年体制が産み落とされた裏では、アメリカ(CIA)から資金が拠出されていたと言われていますし、その後の長い間、当時の野党第一党だった社会党が、イギリスやドイツの社会民主主義的な政策を掲げるのではなく、明らかにマルクス・レーニン主義的であったために、自民党の敗北は自由主義・資本主義の敗北であり、日本の社会主義化を意味するものだと受け止められ、却って圧倒的・安定的な支持を集めてきたというのが事実だろうと思います。
その自民党が一時的にせよ野党に転落したのは1993年のことで、そこから長い凋落期に入り、一時的に小泉人気で復活したように見えましたが、その勢いを支えきれず、ついに与野党逆転に至ったのは、そもそも冷戦構造の崩壊に起因すると思います。
自民党は、良くも悪くも派閥政治と批判されてきた通り、それこそ右派から左派まで、あるいは自由主義的な発想から社会民主主義的な発想まで、さまざまな主義・主張を取り揃えたヌエのような存在で、派閥間の調整を通してさまざまな政策を繰り出し、折からの高度経済成長を背景に、強い経済が産み出した富を公共投資や農業などの遅れた分野に助成する形で再分配することによって、比類なき平等社会を実現し、野党がつけ入る隙を与えませんでした。実際に、農業などへの補助金や地方への公共投資が妬みを買うことはあっても、都市部のサラリーマンも経済成長によって豊かさを実感することが出来ましたし、終身雇用と年功序列によって安定した人生を確保することができたため、地方間格差や職業間格差が議論になることはありませんでした。仮に問題が発生しても、成長する経済のもとでは、問題が大きくなる前に自然に解消していたと言えましょう。
そういう意味で、内では成長する経済のもと、外では冷戦と日米安保という固定化した安全網に守られて、自民党は何もしないでも文句を言われることはなかった。否、誰からも文句を言われないように、各種利害を調整しながら、皆が等しく潤うようにあまねく富を再分配していただけのことでした。先の施政方針演説で、成長戦略がないと批判された鳩山さんが、自民党からそんなことを言われたくないと切り返されたのは、まさにその通りであろうと思います(鳩山さんには、自民党との違いを浮き立たせるために、もうちょっと別の言い方があっただろうと思いますが)。
自民党が窮地に陥り批判に晒されるようになったのは、自民党政治を支える富の再分配システムの源泉である富が枯渇したから、すなわち日本の経済成長が止まってしまったからです。日本の経済成長が変調を来たしたのは、バブル経済が崩壊し、バランスシート調整に戸惑っている間に、冷戦構造が崩壊し、それまで敵視され停滞していた東欧や中国などの東側諸国が開放政策に転換し、世界中から資本を集めて成長し始め、経済における競争環境がどんどん変わってしまったからです。冷戦構造の崩壊によって、真の意味でのグローバル化が進展し、インターネットを中心とするIT革命がそれを加速しました。
小泉さんを継いだ安倍さん、福田さんの総裁選びは、ケインズが言うところの「美人コンテスト」であり、そこでの自民党政治家に「勝ち馬志向」症候群(バンドワゴン効果)があった(山口二郎著「政権交代論」)ことは事実であり、保守合同を知る政治家が一線を引き始めて派閥政治が弱まったことと歩調を合わせるように自民党が弱体化したと言うのも、幕末維新の白刃の下をかいくぐった政治家が引退して日本が戦争に向かう暗黒の時代に突入したという歴史的事実と符合して、興味深いですが、いずれにせよ自民党が賞味期限を過ぎたと揶揄されるほどの環境変化があったことは間違いありません。
この環境変化は不可逆的なものであり、自民党は再生なくして復活はあり得ません。小泉さんの構造改革も、こうした歴史的文脈の中で私は理解して来ました。冷戦構造とその元での経済成長によって可能となった豊かさのシステムとマインド・セットを克服できるかどうか、これはひとり自民党だけではなく、現在の政権党や私たち国民に突きつけられた課題でもあります。
上の写真は、壁は壁でも、2008年に世界遺産に指定されたマレーシア・マラッカのセント・ポールの丘の麓にある、当時、東洋一の堅牢さを誇ったという、ポルトガル時代以来のサンチャゴ砦の一部です。その後、イギリス軍に破壊されたため、現在、残っているのはオランダが再建した門だけなのだそうです。マラッカには、ポルトガル、オランダ、イギリスによる統治の歴史が重層的に折り重なり、さながら世界史の縮図を見るようで、なかなか興味深い。