先週、あるシンポジウムの閉会の挨拶で、安倍首相が登場した。当初、主催者通知には、閉会の来賓挨拶に氏名が記されていなかったため、気にも留めていなかったのだが、当日、会場は厳戒態勢で、飛行機に乗り込むくらいのものものしさで、爆破予告でもあったのかと、すっかり勘違いしてしまった。シンポジウムはグローバル・ヒストリーを考えるもので、安倍首相も関心が高いと見えて、2台のプロンプターを使って、ゆうに10分を越えるご挨拶を丁寧にこなされた。以下のようなものである。
先ず、20世紀から人類が学んだ普遍的な教訓、すなわちアジア・アフリカ会議の演説で述べたような、戦後の自由・民主主義社会の価値観を述べるとともに、戦前については「戦後、我が国は先の大戦に対する痛切な反省の上に立ち」とほんの一言触れただけで、一貫して平和国家として歩んできたこと、奇跡と言われた経済発展を成し遂げ、アジアを始めとする世界の国々と共に繁栄してきたこと、さらに1990年以来、国際協調主義に基づく積極平和主義を進めて来たこと、そしてブログ・タイトルの不等式にあるように明治から開戦までの「戦前」は70数年、「戦後」70年、間もなく「戦後」の方が長くなる、その戦後の日本の歩みを誇りに思う・・・というものだ。最後に、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった普遍的価値を基盤とする世界について触れた上で、こう結んだ。
(引用)
21世紀には世界の形がどんどん変わっていくでしょう。新しい世界はルールに基づき形成されなければなりません。自由で寛容で開かれたシステムの中で多様な意見がぶつかり合ってこそ、新しい世界のビジョンが生まれてきます。それを可能にするのが「自由主義的な国際秩序」だと思います。日本は、新しい世界のビジョンの創造と実現のために、主導的役割を果たしていきたいと思います。
(引用おわり)
我が国の明治維新から帝国主義的発展の時代より、国際社会復帰と平和への努力に捧げた時間が長くなること、実際には東京裁判で裁かれたのは15年戦争だから、それよりも5倍近い時間が流れたことに、私たちは自信をもっていいし、安倍さんが伝えたかったのは、まさにこのことだったのだと思った。中国や韓国は大いに不満だろうが、それが現実である。今回の話はやや観念的に過ぎたが、話題の70年談話がどうなるのか・・・こうして見ると、もう骨格はほぼ出来ているのだろう。
集団的自衛権は違憲だと主張し、安保法制は戦争法規だと非難し、政府の説明が足りないと文句を言う人が多いようだが、そもそも集団的自衛権は自衛権なのだから、勝手に他国を攻めるものではないし、権利なのだから義務ではなく従い他国の戦争に巻き込まれるという発想もおかしい。そんな基本的なところから始めて、そういう人たちはどこまで本気で自ら勉強しているのだろうかと不思議に思う。
何よりも先ず私たちが考えなければならないのは、中国という、国際秩序に明らかに挑戦する大国がいて、東南アジアの相対的に小さい国々に対して露骨に小国だから大国に従えと開き直り、力による現状変更を試みる・・・ということは、東および東南アジアはやはり世界で最も厳しい安全保障環境の一つと言っても過言ではない、そんな環境認識と、もはや地域の安定と安全保障の公共財とも言うべき日米安保条約をどのように位置づけ、日本の外交や安全保障を今後どのように進めて、結果として、どんな国を目指すのか、古い言い方をすれば国柄であり、今風に言えば国家像を、どう描くかという問題だろうと思う。ペルシャ湾やインド洋で、掃海やテロに備えて、シーレーンを守ろうとする国々とともに国際平和と安定のために共に行動するのか、1990年の湾岸戦争のときのように、我々は汗はかかない代わりに金は出すからと言って、最も多額の金銭的貢献をなしたのに、クウェートが主要紙に出した感謝広告に日本国の名前が掲載されなかった、あの屈辱の歴史を繰り返そうというのか・・・。
冒頭のシンポジウムの話に戻るが、安倍さんが描く国家像に対して、私も特に異論はなく、今日、衆院平和安全法制特別委員会で与党が安保関連法案を強硬採決したことに反対し国会周辺に集まる人々が心配するような、戦争をする国では毛頭ない。国会前にはラップに乗せて戦争反対を歌う若者がいて、それ自体には私も特に異論はないが、今回の安保法制とは余り関係がないように思う。ニュースウォッチ9の後、ついいつものクセで報道ステーションにチャネルを合わせて、国会前中継を興奮気味に報道するMCを見ていて思うのは、国際政治の現実には目を塞ぎ、飽くまでナイーブなヒューマニズムや観念的な憲法論を堂々と主張して恥じない偽善性と、まるで思想統制(と言って言い過ぎなら世論誘導)せんばかりの宣伝臭い番組づくりで、小心者の私は大いに当惑し違和感を覚えてしまうのだ。
先ず、20世紀から人類が学んだ普遍的な教訓、すなわちアジア・アフリカ会議の演説で述べたような、戦後の自由・民主主義社会の価値観を述べるとともに、戦前については「戦後、我が国は先の大戦に対する痛切な反省の上に立ち」とほんの一言触れただけで、一貫して平和国家として歩んできたこと、奇跡と言われた経済発展を成し遂げ、アジアを始めとする世界の国々と共に繁栄してきたこと、さらに1990年以来、国際協調主義に基づく積極平和主義を進めて来たこと、そしてブログ・タイトルの不等式にあるように明治から開戦までの「戦前」は70数年、「戦後」70年、間もなく「戦後」の方が長くなる、その戦後の日本の歩みを誇りに思う・・・というものだ。最後に、自由、民主主義、人権の尊重、法の支配といった普遍的価値を基盤とする世界について触れた上で、こう結んだ。
(引用)
21世紀には世界の形がどんどん変わっていくでしょう。新しい世界はルールに基づき形成されなければなりません。自由で寛容で開かれたシステムの中で多様な意見がぶつかり合ってこそ、新しい世界のビジョンが生まれてきます。それを可能にするのが「自由主義的な国際秩序」だと思います。日本は、新しい世界のビジョンの創造と実現のために、主導的役割を果たしていきたいと思います。
(引用おわり)
我が国の明治維新から帝国主義的発展の時代より、国際社会復帰と平和への努力に捧げた時間が長くなること、実際には東京裁判で裁かれたのは15年戦争だから、それよりも5倍近い時間が流れたことに、私たちは自信をもっていいし、安倍さんが伝えたかったのは、まさにこのことだったのだと思った。中国や韓国は大いに不満だろうが、それが現実である。今回の話はやや観念的に過ぎたが、話題の70年談話がどうなるのか・・・こうして見ると、もう骨格はほぼ出来ているのだろう。
集団的自衛権は違憲だと主張し、安保法制は戦争法規だと非難し、政府の説明が足りないと文句を言う人が多いようだが、そもそも集団的自衛権は自衛権なのだから、勝手に他国を攻めるものではないし、権利なのだから義務ではなく従い他国の戦争に巻き込まれるという発想もおかしい。そんな基本的なところから始めて、そういう人たちはどこまで本気で自ら勉強しているのだろうかと不思議に思う。
何よりも先ず私たちが考えなければならないのは、中国という、国際秩序に明らかに挑戦する大国がいて、東南アジアの相対的に小さい国々に対して露骨に小国だから大国に従えと開き直り、力による現状変更を試みる・・・ということは、東および東南アジアはやはり世界で最も厳しい安全保障環境の一つと言っても過言ではない、そんな環境認識と、もはや地域の安定と安全保障の公共財とも言うべき日米安保条約をどのように位置づけ、日本の外交や安全保障を今後どのように進めて、結果として、どんな国を目指すのか、古い言い方をすれば国柄であり、今風に言えば国家像を、どう描くかという問題だろうと思う。ペルシャ湾やインド洋で、掃海やテロに備えて、シーレーンを守ろうとする国々とともに国際平和と安定のために共に行動するのか、1990年の湾岸戦争のときのように、我々は汗はかかない代わりに金は出すからと言って、最も多額の金銭的貢献をなしたのに、クウェートが主要紙に出した感謝広告に日本国の名前が掲載されなかった、あの屈辱の歴史を繰り返そうというのか・・・。
冒頭のシンポジウムの話に戻るが、安倍さんが描く国家像に対して、私も特に異論はなく、今日、衆院平和安全法制特別委員会で与党が安保関連法案を強硬採決したことに反対し国会周辺に集まる人々が心配するような、戦争をする国では毛頭ない。国会前にはラップに乗せて戦争反対を歌う若者がいて、それ自体には私も特に異論はないが、今回の安保法制とは余り関係がないように思う。ニュースウォッチ9の後、ついいつものクセで報道ステーションにチャネルを合わせて、国会前中継を興奮気味に報道するMCを見ていて思うのは、国際政治の現実には目を塞ぎ、飽くまでナイーブなヒューマニズムや観念的な憲法論を堂々と主張して恥じない偽善性と、まるで思想統制(と言って言い過ぎなら世論誘導)せんばかりの宣伝臭い番組づくりで、小心者の私は大いに当惑し違和感を覚えてしまうのだ。