今回は、小野田さんを取り上げる。Wikipediaには(ちょっと長くなるが)以下の記述がある。
(前略)フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。(後略)
まさにゲリラ戦である。凄まじい。
小野田氏は、昭和19年9月に陸軍中野学校二俣分校に入校している。所謂スパイ学校である。主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)し、11月に事実上の卒業後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官し、12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣された(Wikipedia)。フィリピン・ルバング島は、マニラ湾を塞ぐように位置する南北27キロ、東西10キロの小島で、敵のルソン島攻撃を遅延させるために、ルバン飛行場の滑走路を破壊し、敵が上陸したら、敵機の爆破を図れという命令だったらしい。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と言われ、最後まで命令に忠実だった。
昭和29年5月、日本軍再上陸のために占領していた西海岸に、30数名の討伐隊がやってきて、銃撃戦となり、射撃の名手だった島田庄一伍長が眉間を打ち抜かれ即死した。昭和47年10月には、稲むらに火をかける陽動作戦の最中に警察軍に襲われ、小塚一等兵が銃撃でやられ、とうとう小野田少尉一人になった。しかし、「次は自分の番だ」という恐怖心はなぜか湧かず、敵に対する憎悪がこみ上げたが、その感情におぼれることを防ぐために、自分の命の年限を決めたという。あと10年、60歳で死ぬ。60歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃し、保存している銃弾すべてを打ち尽くして、死に花を咲かそう・・・。小塚一等兵「戦死」のニュースは、日本でも衝撃的なニュースとして取り上げられ、ヘリコプターが飛んで、「小野田さん、生命は保証されています。いますぐ出てきてください」と呼びかけ、ジープからは姉の千恵さんが「ヒロちゃんが、私に二つくれたわね」と、結婚祝いに贈られた真珠の指環のことを語りかけた。長兄や次兄、弟の声も聞こえ、本物に違いないと思った。しかしこの時でさえ、小野田少尉は二通りの見方を考えたという。一つは米軍の謀略工作で、「残置諜者」の自分を取り除くために、占領下の日本から肉親まで駆り立ててきたというもの。もう一つは日本の謀略機関が、アメリカを欺くためのトリックとして、捜索隊という口実で、島の飛行場やレーダー基地の情報収集をしている、というもの。アメリカのベトナム戦争での失敗をついて、経済大国にのし上がった日本がフィリピンを自陣営に取り込む目的か。いずれにせよ、肉親の呼びかけを信じて、うっかり出て行ってはならない、と小野田少尉は判断したという(このエピソードは、伊勢雅臣氏の国際派日本人養成講座H18.03.19「人物探訪: 小野田寛郎の30年戦争」参照)。
リスクマネジメントは最悪のことを想定するものだが、彼におけるその厳しさといったらない。
その肉親も含めた捜索隊が引き上げた約1年後の昭和49年2月、フィリピン空軍レーダー基地で、小野田少尉は戦闘服姿で、整列した将兵が捧げ筒で出迎える中、「投降の儀式」に出た。翌日、ヘリコプターで運ばれた先のマラカニアン宮殿で、マルコス大統領は小野田少尉の肩を抱き、こう言った。「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します」(同上)。
そして、翌3月、羽田空港に降り立って臨んだ記者会見で、有名なやりとりが行われる。「人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で過ごしたこと」について聞かれた小野田氏は、質問者を凝視して、しばらく考えた後、「若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」と答えた。戦後の日本人の浅ましさで、記者は、軍国主義に振り回された人生を憐れんだのかも知れないが、戦前の精神そのままの小野田氏は歯牙にもかけなかったのだ。そして、「日本の敗戦をいつごろ知ったか。また、元上官の谷口さんから停戦命令を聞いた時の心境」を聞かれ、「敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんともいいようのない・・・(うつむきかげんで、力なく言葉がとぎれかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です」と答えた。戦後の繁栄の中で、ますます軍国主義を悪と見なすことに慣れた日本人は虚を突かれたことだろう。
そんな彼も、女性と子供には決して危害を加えなかったという。投降後の小野田氏に対して、州知事夫人はこう語っている。「島の男たちは30年間、大変怖い思いをした。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子どもには危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした。」 このことについて、後年、彼は次のように述懐している。「私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。人として当たり前のことをしたまでです」。 しかしそれが帝国軍人の精神なのだろうと思う。
小野田氏が、帰国後、一刻も早く実現したかったのは、最後までともに戦った島田伍長と小塚一等兵への墓参りと遺族への謝罪で、それが叶うまで一ヶ月近くが経っていた。その間、軍国主義に加担したなどという心無い戦後日本人の悪しき非難の声も届いており、小野田氏は、政府から寄せられた見舞金を全て靖国神社に寄付した。「一緒に戦って死んだんですもんね。それを軍国主義に加担するなんて言われたら。そんな人間と一緒にいたくない。それがブラジルへ移住した理由。だれも好き好んで戦争をしたわけじゃない」。翌年、53才の時、永住を心に決めてブラジルへ渡った。「喧嘩すると勝たなきゃいけない。だから、離れることを選んだ。喧嘩したくないから。自己満足かもしれませんけどね」。
あらためて、帰国後の小野田氏の言葉を振り返りたい。「私は戦場での三十年、生きる意味を真剣に考えた。戦前、人々は命を惜しむなと教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」。
戦後の私たちだって、レベルは違うが・・・つまり死を身近に意識しないまでも、如何に生きるべきか、もがいている。死を覚悟しないでいい時代を生きられることは幸せだが、私たちは生きる時代を選べない。この時代を生きるしかない。それは小野田氏にも理解して欲しい。しかし、逆に小野田氏の帝国軍人の生き方を、あるいは戦前の日本人を不幸だと決めつけることは改める必要があるだろう。私たちは、私たちの哲学や思想を総動員し、想像力を目いっぱい働かせて、当時を振り返り、何故、戦争に至ったか、何故負けてしまったか、そして現代を生きる私たちに活かされる教訓は何か、私たちが怠ってきた(情緒に流されるのではない)知的な営みとしての「総括」をする必要があるように思う。
(前略)フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。これらの戦闘において、アメリカ軍レーダー基地司令官を狙撃し、重傷を負わせる等、多くの戦果を上げている。地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独で戦闘を続行している。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷した。手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。(後略)
まさにゲリラ戦である。凄まじい。
小野田氏は、昭和19年9月に陸軍中野学校二俣分校に入校している。所謂スパイ学校である。主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)し、11月に事実上の卒業後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官し、12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣された(Wikipedia)。フィリピン・ルバング島は、マニラ湾を塞ぐように位置する南北27キロ、東西10キロの小島で、敵のルソン島攻撃を遅延させるために、ルバン飛行場の滑走路を破壊し、敵が上陸したら、敵機の爆破を図れという命令だったらしい。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と言われ、最後まで命令に忠実だった。
昭和29年5月、日本軍再上陸のために占領していた西海岸に、30数名の討伐隊がやってきて、銃撃戦となり、射撃の名手だった島田庄一伍長が眉間を打ち抜かれ即死した。昭和47年10月には、稲むらに火をかける陽動作戦の最中に警察軍に襲われ、小塚一等兵が銃撃でやられ、とうとう小野田少尉一人になった。しかし、「次は自分の番だ」という恐怖心はなぜか湧かず、敵に対する憎悪がこみ上げたが、その感情におぼれることを防ぐために、自分の命の年限を決めたという。あと10年、60歳で死ぬ。60歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃し、保存している銃弾すべてを打ち尽くして、死に花を咲かそう・・・。小塚一等兵「戦死」のニュースは、日本でも衝撃的なニュースとして取り上げられ、ヘリコプターが飛んで、「小野田さん、生命は保証されています。いますぐ出てきてください」と呼びかけ、ジープからは姉の千恵さんが「ヒロちゃんが、私に二つくれたわね」と、結婚祝いに贈られた真珠の指環のことを語りかけた。長兄や次兄、弟の声も聞こえ、本物に違いないと思った。しかしこの時でさえ、小野田少尉は二通りの見方を考えたという。一つは米軍の謀略工作で、「残置諜者」の自分を取り除くために、占領下の日本から肉親まで駆り立ててきたというもの。もう一つは日本の謀略機関が、アメリカを欺くためのトリックとして、捜索隊という口実で、島の飛行場やレーダー基地の情報収集をしている、というもの。アメリカのベトナム戦争での失敗をついて、経済大国にのし上がった日本がフィリピンを自陣営に取り込む目的か。いずれにせよ、肉親の呼びかけを信じて、うっかり出て行ってはならない、と小野田少尉は判断したという(このエピソードは、伊勢雅臣氏の国際派日本人養成講座H18.03.19「人物探訪: 小野田寛郎の30年戦争」参照)。
リスクマネジメントは最悪のことを想定するものだが、彼におけるその厳しさといったらない。
その肉親も含めた捜索隊が引き上げた約1年後の昭和49年2月、フィリピン空軍レーダー基地で、小野田少尉は戦闘服姿で、整列した将兵が捧げ筒で出迎える中、「投降の儀式」に出た。翌日、ヘリコプターで運ばれた先のマラカニアン宮殿で、マルコス大統領は小野田少尉の肩を抱き、こう言った。「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します」(同上)。
そして、翌3月、羽田空港に降り立って臨んだ記者会見で、有名なやりとりが行われる。「人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で過ごしたこと」について聞かれた小野田氏は、質問者を凝視して、しばらく考えた後、「若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」と答えた。戦後の日本人の浅ましさで、記者は、軍国主義に振り回された人生を憐れんだのかも知れないが、戦前の精神そのままの小野田氏は歯牙にもかけなかったのだ。そして、「日本の敗戦をいつごろ知ったか。また、元上官の谷口さんから停戦命令を聞いた時の心境」を聞かれ、「敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんともいいようのない・・・(うつむきかげんで、力なく言葉がとぎれかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です」と答えた。戦後の繁栄の中で、ますます軍国主義を悪と見なすことに慣れた日本人は虚を突かれたことだろう。
そんな彼も、女性と子供には決して危害を加えなかったという。投降後の小野田氏に対して、州知事夫人はこう語っている。「島の男たちは30年間、大変怖い思いをした。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子どもには危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした。」 このことについて、後年、彼は次のように述懐している。「私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。人として当たり前のことをしたまでです」。 しかしそれが帝国軍人の精神なのだろうと思う。
小野田氏が、帰国後、一刻も早く実現したかったのは、最後までともに戦った島田伍長と小塚一等兵への墓参りと遺族への謝罪で、それが叶うまで一ヶ月近くが経っていた。その間、軍国主義に加担したなどという心無い戦後日本人の悪しき非難の声も届いており、小野田氏は、政府から寄せられた見舞金を全て靖国神社に寄付した。「一緒に戦って死んだんですもんね。それを軍国主義に加担するなんて言われたら。そんな人間と一緒にいたくない。それがブラジルへ移住した理由。だれも好き好んで戦争をしたわけじゃない」。翌年、53才の時、永住を心に決めてブラジルへ渡った。「喧嘩すると勝たなきゃいけない。だから、離れることを選んだ。喧嘩したくないから。自己満足かもしれませんけどね」。
あらためて、帰国後の小野田氏の言葉を振り返りたい。「私は戦場での三十年、生きる意味を真剣に考えた。戦前、人々は命を惜しむなと教えられ、死を覚悟して生きた。戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」。
戦後の私たちだって、レベルは違うが・・・つまり死を身近に意識しないまでも、如何に生きるべきか、もがいている。死を覚悟しないでいい時代を生きられることは幸せだが、私たちは生きる時代を選べない。この時代を生きるしかない。それは小野田氏にも理解して欲しい。しかし、逆に小野田氏の帝国軍人の生き方を、あるいは戦前の日本人を不幸だと決めつけることは改める必要があるだろう。私たちは、私たちの哲学や思想を総動員し、想像力を目いっぱい働かせて、当時を振り返り、何故、戦争に至ったか、何故負けてしまったか、そして現代を生きる私たちに活かされる教訓は何か、私たちが怠ってきた(情緒に流されるのではない)知的な営みとしての「総括」をする必要があるように思う。