風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

戦後70年:生命力

2015-08-22 22:47:15 | 日々の生活
 この時期になると、思い出される人たちがいる。大東亜戦争終結後27年の1972年にグアム島で発見された残留日本兵・横井庄一さんや、同じくその2年後の1974年にフィリピン・ルバング島から帰還を果たした小野田寛郎さんである。横田さんはジャングルのサバイバル術に長けていた一方、小野田さんは少尉としてスパイ活動に携わったこともあり、ラジオを入手して情報収集怠りなく「作戦」を展開し続けるなど、兵士として戦い続け、ある意味で対照的な生き様を示された二人だ。いずれにしても、当時、子供心に、戦後27年や29年という歳月は衝撃だった。10年かそこらしか生きていない少年には当然のことである。あらためて、戦後の高度成長の真っ只中を生きた私は、その生命力の強さや精神力の強さに大いに感銘を受けるとともに、自らを振り返り、戦後の日本人が失った(と思われる)ものを思って、今もなお大いに考えさせられる。
 今回は横井さんにフォーカスしてみたい。Wikipedia は次のように伝えている。

(前略) 当時、グアム守備隊壊滅後も生き残った一部の将兵は山中に撤退しゲリラ戦を行っていたが、1945年(昭和20年)のポツダム宣言受諾によって日本軍の無条件降伏が発令されたことは知らされなかった。横井らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活、グアム派遣から約28年後の1972年(昭和47年)1月24日、エビやウナギをとるために罠をしかけに行ったところ、現地の鹿の猟をしていた住民に遭遇、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した(なお、撤退当初から横井には2人の戦友が居たが、発見の約8年前に死亡している)。(中略)軍事教育を受け育った横井は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際、羽田空港で空港に出迎えに来た、斎藤邦吉厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝えたと言う。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど。」と発言した。これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。(後略)

 そのほか、ネットを検索すると、いろいろなエピソードを拾うことが出来る。
 横井さんが過ごしたジャングルは衛生環境が良くない。高温多湿で虫が多く、中でもゴキブリがひどかったので、それを少しでも食べてもらうためにカエルを飼っていて、そのカエルを唯一の友人と表現されていたという。住居や食料確保のために存在を知られて死んでいった仲間たちを見ていたため、一切の生活の痕跡を残さずに行動することを心掛け、獣を装い、直線ではなくジグザグに歩く、足跡は必ず消す、決して音を立てず、独り言さえ言わない、落ちているヤシの実は、10個あっても3個だけ拾う、匂いと強い煙の出る「焼く」調理はご法度で「蒸す・煮る」のみ(「焼く」のは人目につかない真夜中に穴の中で行うため耐えられない暑さと息苦しさだったという)・・・その緊張感は尋常のものではなく、帰国後、横井さんの脳波を計測した医師は「熟睡時に出る脳波がまったく検出されなかった」と発表している。
 ただ、横井さんの強みは、名古屋で洋服の仕立て業を営んでいた経験から、手先が器用だったことで、ろくな道具もなしに掘った穴は、28年間で6ヶ所を数えたが、最後に住んだ穴は、幅1.6m、高さ1.5m、奥行き4m、竹で天井を張り、床にすのこを敷いた内部には、空気穴、いろり、水洗便所、排水溝まで備え、後に見学に訪れた某ゼネコン社員が、その精巧さに驚嘆したらしい。草履のほか、機織り機で服も作った。その服は、木の皮をはいでアク抜きして繊維を作り、砲弾からとった真鍮で針を作り、ヤシの実からボタンをつくり、丁寧にかがられたボタン穴の、半年がかりで完成させた5つボタンの立派なスーツで、緻密な織りの生地や美しく揃った縫い目から、とてもジャングルで制作されたものとは思えないほどの出来栄えで、作家の松本清張氏は「私も手先の器用な兵隊は見ているが、横井さんのような兵は一万人に一人あるかないかだろう」と新聞コラムに書いている。本人にとって時間がかかる大変な作業だったろうが、物を作り上げる充実した喜びが味わえたと言い、生きる支えになっていたことだろう。
 また、籠を作り、仕掛けにしてネズミなどの小動物や、川ではうなぎやエビも捕まえた。ジャングルとは言え大事なのは「火」で、マッチもなく火を起こすのは大変な苦労だったらしく、当初、拾ったワイングラスで作ったレンズを火災で失ってからは、竹をこすり合わせて発火させ、それを縄に移して灰にし、竹筒に入れて持ち歩くというように、火を絶やさない努力をしたという。火のお陰で、ネズミなどを焼くと簡単に皮がむけ、天日で乾燥させて保存食にすることが出来て便利になった。そして過酷な生活環境を少しでもマシなものにするための研究を続け、水筒を半分に割って飲み口に竹をさして持ち手にしたフライパンを作ったり、水筒の半分でおろし金を作ったりもした。ヤシの中の白い果肉のような物をおろし金でおろし、それを絞るとココナッツ・ミルクがとれたので、このココナッツ・ミルクで煮込む料理を作れるようになった。さらにココナッツ・ミルクを火にかけてアクを取り、アクを再び火にかけると油と水が分離したため、この油にヤシの繊維を編んで浸して燃やしランプとしたほか、この油を使って鉄カブトの鍋でソテツの実を砕いた粉に食材をつけてあげて天ぷらにした。そのソテツの実には有毒成分が含まれていて苦しんだが、それでも食べる物が乏しいため、ソテツを何とか食べようと工夫し、後にソテツは実を割って4日以上水にさらせば毒が抜けて食べられることが分ったという。
 まさにサバイバルである。帰国後は生まれ故郷・愛知県に居を構え、戦後の日本の変化に適応できるか心配されたが、驚くほど素直に現代日本に馴染み、公募で花嫁を見つけ、サバイバル評論家としてオイルショック後の豊かな日本で評論活動を続けられ、1997年9月に82歳で亡くなった。1974年には参議院議員選挙に出馬して周囲を驚かせ、落選したが、政権放送で語った次の言葉に、横井さんなりの問題意識が滲んでいて興味深い。「人間ジャングルと申しましたのは、戦後、人間の心が変わってしまったと感じるからでございます。(略)私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。(略)勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。(略)食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。(略)子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません」。
 大東亜戦争で亡くなった帝国軍人は、戦闘そのものよりも飢餓や疫病で亡くなった方の方が多かったと言われる。横井さんのような存在はある意味で例外なのかも知れない。また今後、アメリカをはじめとして、諸外国が手を染める戦争は、ドローンなどの無人機やロボットが中心になる。そういう意味でも、公式の戦争後も続いた横井さん個人の戦争での生き様には、人間という動物の生命力の可能性を信じさせてくれる一方で、現代の私たちからは失われて久しく、むしろ特異性が際立つとも言える。それが良いのか悪いのか、いろいろ考えさせられるのである。
コメント
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