風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

戦後70年:談話

2015-08-16 00:08:20 | 時事放談
 今日の終戦記念日は、蝉しぐれが喧しい、暑い一日だった。蝉の鳴き声ばかりが響いて、芭蕉ではないが、却って静けさを際立たせるようでもあった。70年前の今日を思い出させるかのように。
 昨日、安倍首相から戦後70年の談話が発表された。個人的な談話ということであれば大いに期待したところだが、国内の保守層向けにはともかく対外的にはどうかという懸念が拭えず、結果、閣議に諮ることが決まった段階で、公明党が口を出し、諸外国を含む様々な立場に配慮した穏当なものに後退せざるを得ないことは分かっていた。止むを得まい。ここ数日、「植民地支配」「侵略」「反省」「お詫び」の四つのキーワードが盛り込まれるかどうかが話題になる馬鹿馬鹿しいほどの喧騒が続いたが、蓋を開けたら、安倍色を残しつつ、客観的に見てバランスの取れた良い内容だったと思う。
 読売新聞の社説が第一声で伝えるように、「先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示したと前向きに評価」出来るだろう。何より近隣諸国だけでなく東南アジアや豪や欧米諸国にも配慮して「和解」に触れ、戦争そのものより戦後70年に至る平和国家としての歩みを誇り、未来志向に徹したのが良かった。そして、戦後生まれが八割を超える日本にあって、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明言したのが白眉だろう。
 中・韓の反応がどうかは、朝日新聞の社説を見れば分かる(と言ったら叱られるかな)。冒頭、いきなり「いったい何のための、誰のための談話なのか」とある。中・韓が、その公正中立な談話内容に対して、外交的配慮により、言いたいことが言えずに戸惑っているのを、代弁するかのようだ。因みに、安倍首相は、主語のない「侵略」と一般化したことで、中国に対する皮肉とし、「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて・・・」と言うことによって、中国だけでなく韓国をも暗に批判する結果、中・韓にはバツの悪さが際立つものとなったであろうことが想像されるのだが、ここではこれ以上は触れない。続いて「安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。(中略)この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う」と、「戦後を総括した談話」を「総括」している。安倍色が残ることが余程お気に召さないらしい。
 保守派の学者の中にも、70年の節目とは言えキリの良い年数なだけで談話を出すことに疑問を呈する人がいた。維新の党も談話を出すことには否定的で、「これまでの歴史認識を変える意図があるのではないかと疑われて国際的な混乱を招き、国益を損ねかねない事態になったことは残念というほかない」とコメントしたが、「国際的な混乱」は「中・韓の疑念」と読み替えるべきであり、杞憂であろう。むしろ、いい加減、「謝罪」→「中・韓の執拗な嫌がらせ」の負の連鎖を断ち切るべきだろう。そうでなければ海外で生活する子供たちが肩身の狭い思いをして余りに可愛そうだ。
 いずれにしても、先の戦争の敗者としての地位は変わらない(この地位を変えたければ、アメリカと戦争するか、アメリカとともに戦争するしかないと、名言(迷言?)を吐いた学者がいた)。そのための嫌がらせは続くであろう。しかし、「言わずもがな」とか「身の潔癖は分かる人には分かる」と鷹揚に構えるのではなく、実証的ではない歴史認識に対しては即座に明確にNOを言うべきであり、法的・歴史的な事実関係を蔑にした無理な要求や主張にもNOを言うべきなのは当然である。そして自虐的な歴史観に基づき卑屈に生きるのではなく、日本国として、日本民族としての控えめながらも確固たる矜持を、戦後70年もそして今後も、保持すべきである。これも安保法制と同様「ふつうの国」になるための、小さくな、しかし重要な一歩なのだろう。
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