先日、近所の大学が実施する市民公開講座なるものに顔を出してみました。所謂、大学の社会貢献活動、地元に開かれた大学の実践で、結構なことですが、若い人の姿はまばらで、おじいちゃん、おばあちゃんで賑わっていました。なんとなく今の日本を象徴するようですが、町そのものの年齢構成(昔からある古い町であること)も影響しているでしょうし、年齢による関心の違い(若い人は子育てや未来のパートナー探しなど生活に直結することの方が大事)もあるでしょう。それはともかくとして、その日は、エネルギー消費に関する面白い見方がありました。
一般的な成人の摂取カロリーの目安は、だいたい1800~2200キロ・カロリー前後、平均2000 キロ・カロリーとして、エネルギー量に換算すると、約8000キロ・ジュール、これで一日の日本のエネルギー消費量を割って、人の労働に置き換えると、実に50億人が日本列島で働いている計算になるそうです。教授は、いわば日本人一人ひとりが39人もの奴隷を雇っていることになるという譬え方をされましたが、なるほどユニークな形容です。これをどう見るか。
ひとつは、工場を動かし、昼夜を問わず輸送用の飛行機・船・電車・車を走らせ、夏でも冬でも快適な室温を保ち、夜でも明るく照らし、風呂を沸かし・・・現代文明という名の豊かさを実現するためには、これだけの労力を要することに驚かされます。原発反対派の人や自然環境に優しい生活を求める人だけでなくとも、もう少し文明の進歩のペースを緩めてもよいのではないかと思うでしょう。あらためて考えさせられる数字です。
誰もが楽をしたい、豊かな生活を送りたい、そんな時、他人より財力のある人は、かつては他人より多くの奴隷を雇い、現代では他人より数多の家電製品や家具や高級車を所有し、場合によっては自家用機で移動し、多くの家と土地を管理するわけで、文明社会が技術革新によって支えられていることはもとより明らかです、人類の歴史において、奴隷解放したのは、人類が賢くなったからではなくて、技術革新によって、人力による単純作業を機械に置き換えた結果に過ぎないとも言えます。それでもなお置き換えられない労働が多数残っています。そこには一つの仕掛けがあって、近代国民国家という仕組みが、税金を徴収することに代えて、かつて奴隷が提供した労力を、国家(あるいは地方公共団体)が人々を組織化することによって、公共サービスという形で提供し、最低限の生活水準を確保している(それ以上の生活水準を企業社会が財と引き換えにサービスとして提供する)側面が浮かび上がります。
・・・と、ここまでは古代ギリシャやローマ、さらに近代になってスペインやポルトガルやイギリスが中南米や北米大陸で行った植民地経営を念頭に想像を巡らせましたがが、実は日本では奴隷制自体がどうも古代から存在していなかったと考えられます。その違いには、民族的優劣意識や侵略性が関係しそうに思います。
一週間くらい前のブログで、慰安婦問題は、女性の人権問題へと収斂し、極端な議論ですが、アメリカにはかつて奴隷制があって、その当時はそれで仕方なかった、などとは今や言えない状況にあるのと、似たような状況にあるらしいことを書きましたが、そこには、絶対的な人権意識の陰に、欧米の歴史に潜むこうした民族的優劣意識や侵略性を抹殺せんとする、宗教的な原罪意識と、勝者の歴史の驕りが、見え隠れします。橋下さんが「戦場の性」を日本だけではない普遍的なものと主張しようとしたのは、テーマ自体が白日の下で議論するに相応しくないという問題はあるものの、欧米人の人権意識を慮り自制しようとするのは、恥ずべき歴史的事実を隠蔽しようとする歴史の勝者におもねる胡散臭さを感じてしまいます。
(参考)http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20130611
一般的な成人の摂取カロリーの目安は、だいたい1800~2200キロ・カロリー前後、平均2000 キロ・カロリーとして、エネルギー量に換算すると、約8000キロ・ジュール、これで一日の日本のエネルギー消費量を割って、人の労働に置き換えると、実に50億人が日本列島で働いている計算になるそうです。教授は、いわば日本人一人ひとりが39人もの奴隷を雇っていることになるという譬え方をされましたが、なるほどユニークな形容です。これをどう見るか。
ひとつは、工場を動かし、昼夜を問わず輸送用の飛行機・船・電車・車を走らせ、夏でも冬でも快適な室温を保ち、夜でも明るく照らし、風呂を沸かし・・・現代文明という名の豊かさを実現するためには、これだけの労力を要することに驚かされます。原発反対派の人や自然環境に優しい生活を求める人だけでなくとも、もう少し文明の進歩のペースを緩めてもよいのではないかと思うでしょう。あらためて考えさせられる数字です。
誰もが楽をしたい、豊かな生活を送りたい、そんな時、他人より財力のある人は、かつては他人より多くの奴隷を雇い、現代では他人より数多の家電製品や家具や高級車を所有し、場合によっては自家用機で移動し、多くの家と土地を管理するわけで、文明社会が技術革新によって支えられていることはもとより明らかです、人類の歴史において、奴隷解放したのは、人類が賢くなったからではなくて、技術革新によって、人力による単純作業を機械に置き換えた結果に過ぎないとも言えます。それでもなお置き換えられない労働が多数残っています。そこには一つの仕掛けがあって、近代国民国家という仕組みが、税金を徴収することに代えて、かつて奴隷が提供した労力を、国家(あるいは地方公共団体)が人々を組織化することによって、公共サービスという形で提供し、最低限の生活水準を確保している(それ以上の生活水準を企業社会が財と引き換えにサービスとして提供する)側面が浮かび上がります。
・・・と、ここまでは古代ギリシャやローマ、さらに近代になってスペインやポルトガルやイギリスが中南米や北米大陸で行った植民地経営を念頭に想像を巡らせましたがが、実は日本では奴隷制自体がどうも古代から存在していなかったと考えられます。その違いには、民族的優劣意識や侵略性が関係しそうに思います。
一週間くらい前のブログで、慰安婦問題は、女性の人権問題へと収斂し、極端な議論ですが、アメリカにはかつて奴隷制があって、その当時はそれで仕方なかった、などとは今や言えない状況にあるのと、似たような状況にあるらしいことを書きましたが、そこには、絶対的な人権意識の陰に、欧米の歴史に潜むこうした民族的優劣意識や侵略性を抹殺せんとする、宗教的な原罪意識と、勝者の歴史の驕りが、見え隠れします。橋下さんが「戦場の性」を日本だけではない普遍的なものと主張しようとしたのは、テーマ自体が白日の下で議論するに相応しくないという問題はあるものの、欧米人の人権意識を慮り自制しようとするのは、恥ずべき歴史的事実を隠蔽しようとする歴史の勝者におもねる胡散臭さを感じてしまいます。
(参考)http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20130611
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