風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

近隣国との関係

2020-08-06 19:41:25 | 時事放談
 河野太郎防衛相の一昨日の記者会見が話題になった。中国公船の活動が拡大・活発化していることに対して、自衛隊としても海上保安庁と連携し、必要な場合はしっかり行動していくと明言された。イージスアショアの代替策として、敵基地攻撃能力の保有も含めた抑止力の向上を検討することに対して、近隣国から理解が得られる状況ではないのではないかと問われて、主に中国がミサイルを増強しているときに、何でその了解がいるのか、我が国の領土を防衛するのに、何で韓国の了解が必要なのかと、気色ばんだ。彼らしい率直なモノの言いは、ちょっと危なっかしいが好感が持てる(笑)。
 先ず一つ目の尖閣諸島を巡る問題に関して、中国では二年前に、日本の海上保安庁に相当する海警(中国海警局)が軍の最高指導機関である中央軍事委員会の指揮下にある武装警察に正式編入され、軍との一体化が進んで、海警から海軍への作戦移行がしやすくなるのではないかと警戒されてきた。習近平国家主席の国賓での訪日延期が決まってから始まった中国公船による尖閣諸島周辺の接続水域での連続航行日数は111日の最長記録を更新し(台風退避のためようやく途絶えた)、その間、日本の漁船を追いかけまわしたときには、日本の漁船が「中国の領海」で違法操業するのを「法に基づき追尾・監視」したとか、中国漁船の尖閣周辺での航行を制止するよう日本が要求する資格はない、などと言いたい放題で、自らの実効支配をアピールしている。河野防衛相の発言を「刺激的」と受け止める向きもあるようで、まあ過去の防衛相の記者会見と比較すれば挑発的と受け止められなくはないが、中国にしたって、中国の公船の背後に海軍艦艇が控えており、日本側が先に手出しするのを手ぐすね引いて待っているわけだから、くれぐれも日本が先に手を出すことは避けなければならないが、言葉で牽制するのにそれほど遠慮することはないだろうと思う。
 二つ目の、近隣国の理解・了解について、河野防衛相の回答は所謂「正論」であって、まあ正しいからといって無条件に支持できるものでは必ずしもないのだが、ここではむしろ質問する側に潜む近隣国への過剰な配慮が気になるところだ。その質問を繰り出すマインドセットに、やや違和感を禁じ得ない。実際、記者は「理解」という言葉を使った(質問を正確に書き出してみると、「防衛政策の見直しについて、十分に理解を得る状況ではないようではないかと思いますが、今後もし理解を得る際に、必要だと思われることがあればお願いします」となる)のに対して、河野防衛相は「了解」が要るかのように受け取られて、会話が噛み合っていなかった可能性があるが、質問自体に河野防衛相がそう受け止めるに足るだけのニュアンスがある。日本人の卑屈さと言っては言い過ぎかも知れない。もしかしたら記者の頭の中には、安保法制論議の際、安倍首相が「各国の疑問に対して丁寧に答え、誤解を解くなど、透明性を持って説明していく」と言われたように、周辺国の「理解」を得ようとする姿勢を示されたことが、記憶にあるのかも知れず、先例に倣うという意味で分からなくなはい。
 確かに日本は、「近隣国」に気を使い過ぎてきた歴史があり、習い性となっている。古くは今から40年近く前、第一次教科書問題において、文部省が教科書検定により高校の歴史教科書において中国華北地域への「侵略」を「進出」と書き換えさせたとする日本のメディアによる誤報をきっかけに外交問題に発展し、教科書を記述する際に近隣諸国に配慮するという旨の、悪名高い「近隣諸国条項」が生まれた(Wikipediaより)。歴史(History)教育は、将来にわたって国民の精神的基盤を形作る重要な物語(Story)であって、本来、国民自身が自分事としてもっと配慮すべきものだと思う(近隣国に配慮は必要ないとは言わないが)。また、湾岸戦争勃発直後のPKO法案審議の際、法案の内容自体がまだ固まらない段階で、中国、韓国などに特使を派遣して、先方の意見を聴取するという案が政府中枢から出されたことがあるらしい(岡崎久彦さんによる)。そのときは流石に取りやめになったが、自ら内政干渉を引き込むようなもので、筋が悪い。
 私も同時代を生きて来た日本人として、先の大戦にまつわる贖罪意識は理解するし、謙虚でありたいと思うが、国家として、となると話は別で、安全保障のような重要なテーマで遠慮や歪みがあってよいとは思わないし、外交で付け入る隙を与えるような腰が引けた態度は得策とは思えない。例えば専守防衛もその一つと言えなくはなくて、かつて米中和解のときに囁かれた「瓶のフタ論」(駐留米軍は重しとなって日本の軍拡を抑えている)を、日本から言い直したかのような性格があり、日本の国力が中国などの近隣国よりも断然上だったからこそ、能力はあっても意思を放棄する(従って能力にも制限をつける、すなわち攻撃兵器を持たない)、その脅威を感じさせない配慮として自制的であることに意味があったが、中国が経済・軍事ともに大国化して、日本を射程に収める中距離ミサイルを2000発も配備する時代に、今だに日本が専守防衛を狭く解して敵基地攻撃は許されないと言い張るのは時代錯誤で滑稽ですらある(だからと言って、国のかたちとして、普通に攻撃的であるべきとも、核兵器を持つべきとも思わないが)。既に国連憲章では、日本が心配しなくても、自衛権と集団安全保障以外の戦争は違法化されている。外交にしても安全保障にしても、もう少し国際法や国際的なpracticesに整合的であってよいように思う。さすがに中国は大国的になったものの、大国らしく振舞うのはウェストファリア体制的(すなわち各国対等で並列的)ではなく、国力が増大するとともに当然の如くに上から目線で横柄になり(笑)、韓国は今なお上下関係や優劣を気にして(!?)日本が一方的に譲歩するのが当然と思っているフシがある、というように、東アジアは、一種のローカル・ルールとして、どうも独特の古い秩序観(多分に儒教に裏付けられている)に縛られた空気に支配されている。日本自身が考え方をあらためるべきだろう。
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