テレビ朝日の看板番組「報道ステーション」の偏向ぶりは、今さら言っても仕方ないのだが、11月16日、パリ同時テロの関連映像を紹介した際、古舘伊知郎キャスターはレギュラー・コメンテーターの内藤正典・同志社大学大学院教授に対し、次のような疑問をぶつけたという。「本当にこの残忍なテロで、許すまじきテロを行った。これは、とんでもないことは当然ですけども、一方でですね、有志連合のアメリカの、ロシアの、あるいは、ヨーロッパの一部の、フランスも含まれますが、誤爆によって、無辜の民が殺される。結婚式の車列にドローンによって無人機から爆弾が投下されて、皆殺しの目に遭う。これも、反対側から見ると、テロですよね」(産経Webより)。
古舘氏はともかく、同志社大学・大学院教授もまた凄まじい。「まったくその通りなんです」と答えた上、イスラエルが2014年にガザ地区を空爆したときに、国連運営の学校も攻撃するなどして、約500人の子供を含む市民1400人以上が亡くなったことに触れ、「亡くなったご遺族からすれば、これがテロでなくて何でしょうか」と指摘したらしい。「もちろん、テロの肯定はしませんけども、そういう犠牲になる人たちの目線から見れば、有志連合がやっていようが、ロシアがやっていようが、フランスがやろうがですね、同じくテロじゃないか」と(同)。驚くべきことに、この二人は誤爆事故とテロを一緒くたにしてしまったのである。
個人攻撃が趣旨ではないし趣味でもないが、古舘氏はプロレス中継の頃から名前も顔も(顔と言う場合はキャラクターも含まれる)商品として売り込み、今もなおその路線の延長上にあることは間違いないから、続けたい。
三島由紀夫に、「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』の鶴田浩二」なる表題の映画評論がある。かれこれ46年前のもので、鶴田浩二と言われてもピンと来ない人が(私も含めて)多いだろうが、その評論では、先ずは俳優としての鶴田浩二賛歌から始まる。
(前略)鶴田浩二は、「飛車角と吉良常」でも、この「総長賭博」でも、年配にふさわしい辛抱立役をにごとに演じていた。(中略)このことは、鶴田の戦中派的情念と、その辛抱立役への転身と、目の下のたるみとが、すべて私自身の問題になってきたところに理由があるのかもしれない。(中略)彼は何と「万感こもごも」という表情を完璧に見せることのできる役者になったのだろう。(中略)思えば私も、我慢を学び、辛抱を学んだ。そう云うと人は笑うだろうが、本当に学んだのである。自分ではまさか自分の我慢を美しいと考えることは困難だから、鶴田のそういう我慢の美しさを見て安心するのである。(後略)
成熟した作家らしいと言うべきであろう。鶴田浩二ご本人を知らずとも首肯することに吝かではない。次に三島由紀夫は、鶴田浩二の演技を論じる。
(前略)ハムレット?とんでもない。二律背反ははじめから鶴田の、あのどこかに諦めを秘めた、あの古風な抒情味を帯びた表情には存在しない。彼は、どこまで矛盾錯綜し、どこまで衝突背反しても、必ずや一つの情念にとけ込むことを約束されている或る同一次元の世界に住んでいる。しかも、その世界に住むことは、決して快適ではなく、いつも困惑へ彼を、みちびくほかはないのであるが、その困惑においてだけ、彼は「男」になるのである。それこそはヤクザの世界であった。
鶴田は体ごとこういう世界を表現する。その撫で肩、和服姿のやや軟派風な肩が、彼をあらゆるニセモノの颯爽さから救っている。そして「愚かさ」というものの、何たる知的な、何たる説得的な、何たるシャープな表現が彼の演技に見られることか。(中略)鶴田の示す思いつめた「愚かさ」には(中略)人間の情念の純粋度が、或る澄明な「知的な」思慮深さに結晶する姿が見られる。考えれば考えるほど殺人にしか到達しない思考が、人間の顔をもっとも美しく知的にするということは、おどろくべきことである。一方、考えれば考えるほど「人間性と生命の尊厳」にしか到達しない思考が、人間の顔をもっとも醜く愚かにするということは、さらにおどろくべきことである。
長い引用になってしまったが、ここでこの映画評論は終わっている。所詮は映画という極めて限られた状況のもとで、ある種の感情の昂ぶりや勢いに乗じて部分的な極端を論じるものであり、更に言えば作家ならではの嗜好なり志向をも反映するものであろう。しかし同時に作家として人間のあるいは人生の本質を切り取って見せているのもまた間違いのないところである。そしてこの「醜く愚か」な顔として私の頭に浮かんだのが、実は不謹慎にも古舘氏であった。ご本人にはお詫びするが、彼は名前も顔も(そしてキャラクターも)商品として売りにしているであろうから、続けたい。
個々のテレビ番組が左・右どちらかの傾向に偏することは、まあよしとする。重要なことは、テレビ局として、左・右どちらかに偏することなく、さまざまな意見を幅広く紹介し、放送法で要求される中立性を実現するべくバランスを取ることであろう。そんな中、古舘氏は、フリーの立場でMCを引き受けながら、放送法で要求される中立性は何のその、自らの偏向を恬として恥じることはない。まあ、それもよしとしよう。問題は(と、私が特に思うのは)、プロレス中継の頃のまま、またSEALDsの若者のように、歳を重ねることによる、脳みそで言えば皺に相当するような心のひだを、微塵も感じさせないところにある。これはもう驚くべきことだ。人は心に、言わば年輪を刻み、それが微妙に響き合うことで、同世代である種の共感を抱くことが出来るものだと思うし、リンカーンならずとも40歳を過ぎたら自分の顔に責任をもつ(Every man over forty is responsible for his face)べきだと思うが、古舘氏の表情のなんとも冷たくよそよそしく、顔のなんとものっぺりしたものであろうか。これは計算づくで、名前も顔も(そしてキャラクターも)商品として売りにしているものだとすれば、何も言うまい。
考えてみれば、(弁護士出身の政治家を必ずしも貶める意図はないのだが)社民党の福島某にしても、民主党の福山某や枝野某にしても、いずれも「人間性と生命の尊厳」において人後に落ちるものではないであろうが、私が言うところの、その表情には似たような冷たいよそよそしさがあり、三島由紀夫が言うところの、その顔が「もっとも醜く愚か」に見えるものであろう。およそ人は葛藤の生き物であり、世の中おしなべて両義性がないことはない中で、自ら正義を任じ、しかもそこに一点の曇りもないとすれば、それほど危ういことはないし、いかがわしいこともないであろう。他人のことをつべこべ言える立場にはないので、自戒を込めて、自らの顔がどう見えているのか(つまりは主張が単純化していないか、独善的でないか、情念の潤いがなくなり干乾びていないか)、たまに他人の目で振り返るのもいいと思った次第である。
古舘氏はともかく、同志社大学・大学院教授もまた凄まじい。「まったくその通りなんです」と答えた上、イスラエルが2014年にガザ地区を空爆したときに、国連運営の学校も攻撃するなどして、約500人の子供を含む市民1400人以上が亡くなったことに触れ、「亡くなったご遺族からすれば、これがテロでなくて何でしょうか」と指摘したらしい。「もちろん、テロの肯定はしませんけども、そういう犠牲になる人たちの目線から見れば、有志連合がやっていようが、ロシアがやっていようが、フランスがやろうがですね、同じくテロじゃないか」と(同)。驚くべきことに、この二人は誤爆事故とテロを一緒くたにしてしまったのである。
個人攻撃が趣旨ではないし趣味でもないが、古舘氏はプロレス中継の頃から名前も顔も(顔と言う場合はキャラクターも含まれる)商品として売り込み、今もなおその路線の延長上にあることは間違いないから、続けたい。
三島由紀夫に、「『総長賭博』と『飛車角と吉良常』の鶴田浩二」なる表題の映画評論がある。かれこれ46年前のもので、鶴田浩二と言われてもピンと来ない人が(私も含めて)多いだろうが、その評論では、先ずは俳優としての鶴田浩二賛歌から始まる。
(前略)鶴田浩二は、「飛車角と吉良常」でも、この「総長賭博」でも、年配にふさわしい辛抱立役をにごとに演じていた。(中略)このことは、鶴田の戦中派的情念と、その辛抱立役への転身と、目の下のたるみとが、すべて私自身の問題になってきたところに理由があるのかもしれない。(中略)彼は何と「万感こもごも」という表情を完璧に見せることのできる役者になったのだろう。(中略)思えば私も、我慢を学び、辛抱を学んだ。そう云うと人は笑うだろうが、本当に学んだのである。自分ではまさか自分の我慢を美しいと考えることは困難だから、鶴田のそういう我慢の美しさを見て安心するのである。(後略)
成熟した作家らしいと言うべきであろう。鶴田浩二ご本人を知らずとも首肯することに吝かではない。次に三島由紀夫は、鶴田浩二の演技を論じる。
(前略)ハムレット?とんでもない。二律背反ははじめから鶴田の、あのどこかに諦めを秘めた、あの古風な抒情味を帯びた表情には存在しない。彼は、どこまで矛盾錯綜し、どこまで衝突背反しても、必ずや一つの情念にとけ込むことを約束されている或る同一次元の世界に住んでいる。しかも、その世界に住むことは、決して快適ではなく、いつも困惑へ彼を、みちびくほかはないのであるが、その困惑においてだけ、彼は「男」になるのである。それこそはヤクザの世界であった。
鶴田は体ごとこういう世界を表現する。その撫で肩、和服姿のやや軟派風な肩が、彼をあらゆるニセモノの颯爽さから救っている。そして「愚かさ」というものの、何たる知的な、何たる説得的な、何たるシャープな表現が彼の演技に見られることか。(中略)鶴田の示す思いつめた「愚かさ」には(中略)人間の情念の純粋度が、或る澄明な「知的な」思慮深さに結晶する姿が見られる。考えれば考えるほど殺人にしか到達しない思考が、人間の顔をもっとも美しく知的にするということは、おどろくべきことである。一方、考えれば考えるほど「人間性と生命の尊厳」にしか到達しない思考が、人間の顔をもっとも醜く愚かにするということは、さらにおどろくべきことである。
長い引用になってしまったが、ここでこの映画評論は終わっている。所詮は映画という極めて限られた状況のもとで、ある種の感情の昂ぶりや勢いに乗じて部分的な極端を論じるものであり、更に言えば作家ならではの嗜好なり志向をも反映するものであろう。しかし同時に作家として人間のあるいは人生の本質を切り取って見せているのもまた間違いのないところである。そしてこの「醜く愚か」な顔として私の頭に浮かんだのが、実は不謹慎にも古舘氏であった。ご本人にはお詫びするが、彼は名前も顔も(そしてキャラクターも)商品として売りにしているであろうから、続けたい。
個々のテレビ番組が左・右どちらかの傾向に偏することは、まあよしとする。重要なことは、テレビ局として、左・右どちらかに偏することなく、さまざまな意見を幅広く紹介し、放送法で要求される中立性を実現するべくバランスを取ることであろう。そんな中、古舘氏は、フリーの立場でMCを引き受けながら、放送法で要求される中立性は何のその、自らの偏向を恬として恥じることはない。まあ、それもよしとしよう。問題は(と、私が特に思うのは)、プロレス中継の頃のまま、またSEALDsの若者のように、歳を重ねることによる、脳みそで言えば皺に相当するような心のひだを、微塵も感じさせないところにある。これはもう驚くべきことだ。人は心に、言わば年輪を刻み、それが微妙に響き合うことで、同世代である種の共感を抱くことが出来るものだと思うし、リンカーンならずとも40歳を過ぎたら自分の顔に責任をもつ(Every man over forty is responsible for his face)べきだと思うが、古舘氏の表情のなんとも冷たくよそよそしく、顔のなんとものっぺりしたものであろうか。これは計算づくで、名前も顔も(そしてキャラクターも)商品として売りにしているものだとすれば、何も言うまい。
考えてみれば、(弁護士出身の政治家を必ずしも貶める意図はないのだが)社民党の福島某にしても、民主党の福山某や枝野某にしても、いずれも「人間性と生命の尊厳」において人後に落ちるものではないであろうが、私が言うところの、その表情には似たような冷たいよそよそしさがあり、三島由紀夫が言うところの、その顔が「もっとも醜く愚か」に見えるものであろう。およそ人は葛藤の生き物であり、世の中おしなべて両義性がないことはない中で、自ら正義を任じ、しかもそこに一点の曇りもないとすれば、それほど危ういことはないし、いかがわしいこともないであろう。他人のことをつべこべ言える立場にはないので、自戒を込めて、自らの顔がどう見えているのか(つまりは主張が単純化していないか、独善的でないか、情念の潤いがなくなり干乾びていないか)、たまに他人の目で振り返るのもいいと思った次第である。
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