風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

コロナ禍⑲ぼやき

2020-05-10 21:21:09 | 日々の生活
 いい加減、コロナ禍について書き続けるのは疲れて来た(笑)。それもこれも日本のメディア報道を疑問に思うばかりに、不完全なデータながらも客観的に現状を把握しようと試行錯誤して来たのは、実のところ、こうした危機的な状況において、世界的に中国共産党による情報隠蔽や情報操作が懸念される中で、日本だけが無縁なわけがないだろう、という私個人の密かな懸念にある。ただの邪推だと笑い飛ばして貰って構わないが、現在の日本の言論空間はちょっと異常ではないかと思う。勿論、コロナ禍によって行動の制約を受け、フラストレーションが溜まっているのは間違いない。そのため、山梨に帰省した女性だったり、安倍さんだったり、責めを負うだけの行動があるからこそ、スケープゴートの対象とする心理は理解できなくはない。
 例えばPCR検査が足りないのは事実、その通りだと思うし、PCR検査を受けられないばかりに急速に重篤化し死に至る例が散見されるのは誠に不幸なことだと思うが、そのようなレア・ケースに余りにフォーカスし過ぎるのは却って全体を見誤るようにも思う(埼玉県は、リソース不足のせいで、どうやら4日間37.5度を厳しく適用したようで、もしその通りだとすれば、間違いなく不幸なことだったと思う)。そもそもPCR検査を増やすのは、客観的な情勢を把握するためであって、国民一人ひとりの不安を解消するためではない。実際、東大・薬学部の池谷裕二教授は、PCR検査数と死亡者数とを比較し、日本の感染の現状に鑑みれば的を絞った適正な検査をして来たと解説されたようだ。また、ロンドンのインペリアル・カレッジが発表した、新型コロナウイルス対処における検査についての論文では、余りよく考えずに「検査を増やせ」との議論があるが、検査を増やせば感染が防げるわけではないので注意が必要、という結論になっているらしい(私は論文をダウンロードしたが、まだ読み込んでいないのでこれ以上は踏み込まない)。また、所謂「アベノマスク」に関する報道も酷いもので、全体戦略が発出される前に発表されて、本来であれば苦笑いしてやり過ごす程度のところ、かかる情勢下で人格を否定するような言説が充ち満ちた(苦笑)。勿論、日本の官僚制をベースとする保守的で遅々とした対応に不満があるのは分かるし、専門家会議に丸投げしているかのような無責任とも思える政府の体たらくを懸念する気持ちもよく分かる。先の国難である東日本大震災、とりわけ福島第一原発問題と比較したくなる気持ちも分かるが、今回は、放射能ではなく、未知のウイルスとの戦いであって、しかも福島県に限らず全国、しかも全世界に突き付けられた課題でもある。新しい生活様式を押し付けられることに反発する向きもあるようだが、これまでコロナ禍への対応で「強制」「義務」があった試しはなく、飽くまで国民の自主的な対応を期待したものであって、それ自体に補償問題での物足りなさはあるものの、これが戦後75年を経て形作られてきた国のありようであって、公衆衛生の立場からのアドバイスに過ぎないのも自明で、過剰反応ではないだろうか。大阪府知事が、日本国政府に先駆けて自粛解除の基準を公表し、もてはやされているかに見えるが、当たり前のことをしたまでであって、特段、褒めそやすに値しない。いや、政府の体たらくもあって、その頑張りが際立つのは無理もないし、私自身も大学卒業まで20年間は大阪育ちで、頑張って欲しい気持ちは大いにある。
 日本のメディア報道として疑問に思う典型が、「政府のコロナ対応、海外から批判続出『終結は困難』」とタイトルされた5月7日付の朝日新聞記事であろう。「新型コロナウイルスへの日本政府の対応について、海外から批判が相次いでいる」としながら、その実、批判の内容は過去に取り上げられてきた在外日本人の言説のようであり、要は批判のためにする批判のようなのだ。その最後にはよりによって韓国の代表的な左派メディア・ハンギョレ新聞(電子版)を取り上げ、「新型コロナの対応に失敗し、国民を苦痛に陥れた安倍政権は今からでも隣国の成果を謙虚に認め、支援を要請する勇気を見せなければならない」と訴えたことをそのまま引用して締め括っている。では、ニューズウォーク日本語版5・5/12号の韓国人ジャーナリスト崔碩栄氏による記事「韓国の対応を称える日本に欠ける視点」をどう見るか。韓国では、冷戦時代華やかなりし頃に採用された「住民登録番号」制度が活用され、マスク不足への対策として1人が1週間に購入できるマスクを2枚ずつと制限された事実、また今なお徴兵制を施行する韓国において、コロナ対応のために「社会服務要員」として軍人や公衆保健医という兵役義務を担う若い男性たちが動員され、薬局の人手不足を補うため、マスク工場での包装や運搬作業のため、宿泊所も手配されないまま大邱や慶尚北道地域に派遣された事実を、どう受け止めるか。崔碩栄氏はこの記事を次のように締め括る。「日本人にとってベストな選択は韓国のように対応することではなく、その裏に見えるものも冷静に観察することではないだろうか?」と。
 最近、気になったこと2点に触れたい。
 一つは、今日の日経に掲載されたもので、確かにPCR検査体制は諸外国に比べて格段に劣っているものの、CT検査は紛れもなくダントツに世界トップであって、肺炎検査をしっかり実施し補完しているのではないか、という話だった。このあたりは、日本の医療全体として評価されるべきだろう。
 もう一つは、「超過死亡」という概念だ。これは「パンデミック時の総死亡者数(死因を問わない)」から「通常時の平均死亡者数」を引いた数値のことで、今回は「直接・間接を問わずパンデミックが生み出した死亡者数」を表す参考指標と考えて良さそうであり、Financial Timesは「超過死亡数に比べると、各国が公式に発表している死亡者数はかなり少ない」と報じている。この混乱では、そりゃそうだろう。では日本はどうか。国立感染症研究所によれば、4月初旬までは、特段の増加が見られず、日本の新型コロナ禍対策はそれなりにうまく行っていることの傍証になり得ることが確認されているらしい。私は「死亡者数」こそ動かしようがない客観的事実と思って来たが、「超過死亡」は、通常のインフルエンザ死亡者数が減っていることもあるにはあるが、関連死まで含めれば、今のコロナ禍に伴う混乱を客観的に捉える数値として、確かに注目されてよいのではないかと思う。検査数に依存する感染者数ではなく、もう少しメディア報道には工夫があってもよいのではないだろうか。
 知人のFacebookコメントによれば、新型コロナは日本で昨年8月に発生していたとするデマが流れ始めているらしい。それがもし事実とするならば、「今はそれどころじゃないだろう」とか、「真実はいずれ分かる」ではなく、タフなアメリカではなくナイーブな日本を狙い撃ちにするような(恐らく中国共産党による)宣伝戦には、宣伝下手な日本として心してかかるべきだろう。

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