風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ゆとり考

2010-04-07 00:30:24 | 時事放談
 教育問題、とりわけゆとり教育と学力低下の相関が批判されて久しい。私はもちろん教育の専門家ではありませんが、もとより教育は専門家に任せるものではなく自らの問題ですし、我が子の将来だけでなく、日本の国の将来をも左右する重要な問題であるとの認識から、自分なりにつらつら考え、好き勝手に述べて来ました。
 振返ると、従来の日本の教育は、知識や技能を修得することに偏重した結果として、受験競争を煽り、1970~80年代にかけて、落ちこぼれや登校拒否、校内暴力やいじめなどが大きく社会問題化しました。その反省から、1996年の中央教育審議会答申では、知識偏重による子供の生活のゆとりのなさが指摘され、2002年に始まる週5日制をはじめとした「ゆとり教育」へ舵を切って来たとされます。詰め込み教育批判は、なにも日教組や学者だけが主張して来ただけでなく、経済界からも支持されて来たのは、高度成長から安定成長に移行した日本が、モーレツ型の経済社会から、自ら思考し問題解決する能力をもった自律型の社会へ転換するべきだとする当時の社会的な要請を受けたものと考えられます。
 この「ゆとり教育」を支える考え方は「新しい学力観」などと呼ばれ、従来の知識偏重による、結果としての知識や技能の蓄積と言うよりもむしろ、学習過程や変化への対応力の育成を目指し、体験的な学習や問題解決学習の時間を取り入れ、評価軸として関心や意欲や態度を重視して来ました。これ自体の目指すところは間違いではなく、まさにペナンのインターナショナル・スクールやシドニーの公立学校で行なわれていたものに近いように思われます。これらの海外の学校では決して知識や技能の習得が重視されていなかったわけではなく、むしろ宿題の形で、出来る子供にはどんどん先に進ませるようなところがありますが、日本では何故かゆとり=時間的余裕と見なされ、教科書が薄くなって、授業時間も減らされ、そうして空いた時間は、もっと総合的な能力を磨くことに向けられるかと思いきや、結局、勉強ではなく、テレビを見たりゲームで遊ぶことに費やされる傾向にあるのが現実で、結果として、国際教育到達度評価学会(IEA)が行う国際数学・理科教育調査(TIMSS)や、OECDが行なう学習到達度調査(PISA)などで、年を経るごとに日本のポジションが低下し、学力が低下しているとの批判に晒されて来ました。
 こうした振り子が両極端に振れるような、あれかこれかの議論は、事を余りに単純化し過ぎるキライがありますし、議論が学習指導要領に収斂しているのも気に食わない。教育は独立して存在するものではなく、ある時代背景のもとに家庭のありようや社会生活と密接不可分であり、理科の実検のように、学習指導要領だけいじくりまわして教育の効果が測れるといったような単純なものではないはずだからです。キー・プレイヤーとしての教師の力量に対する視点も欠けていますし、教育の効果を5年や10年で測るのも短すぎるのではないかと思います。
 そもそも、学力低下論争のきっかけになった調査は、議論があるところです。TIMSSは学校教育で得た知識や技能がどの程度習得されているかを評価する、いわば伝統的な意味での基礎学力を測るものである一方、PISAは義務教育終了段階で身につけた知識や技能が実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価する、いわば新しい学力観に基づき、読解的リテラシー(読解力)、数学的リテラシー、科学的リテラシーを主に調査するもので、両者の調査目的は異なり、従い試験内容も異なると言われます。実際に、TIMSSとPISAとで、上位にランクされる国の顔ぶれは異なることでも知られ、2003年のTIMSS数学の上位国は、シンガポール、韓国、日本、香港、台湾、ベルギー、オランダなどでしたが、PISAの上位国であるフィンランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスはTIMSSでは先進国中で下位の成績だそうです。その双方において日本の地位が下がっているのだとすれば、従来型の基礎学力が落ちたのは、教科書を減らしたからだと考えられなくもありませんが、総合学習的な学力も成果が出ていないとすれば、まだ足りないのか、あるいは文部省の肩を持つつもりはありませんが、もう少し時間をかけてじっくり評価・検証し更に改善しつつ進めるべきものと言えなくもありません。
 月並みですが、一つ言えることは、基礎学力と、その応用力あるいは主体的に考え行動する能力や問題解決力との間には明らかな相関があり、基礎学力が低い子供は自分で考え主体的に行動する能力も低いとされることは、経験上も容易に理解されるところです。結局、教育にあっては、あれかこれか、ではなく、あれもこれも、といった貪欲さが重要だと思うのです。
 その上で、週末のニュース解説番組で、宮大工の棟梁が、ゆとりなんてのは量とか時間で測るものではない、ある木組みが地震の揺れを吸収するように、心のありようの問題だというようなことを言っていたのを思い出します。教科書をぶ厚くして、基礎学力をあげるのも、勿論、教育の停滞あるいは地盤沈下に対する一つの回答には違いませんが、せっかく踏み出したゆとり教育と総称されていたものの、ゆとりということの本質を、もう一度、考え直してみる必要があるように思います。
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