風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

クラウド

2009-11-14 22:48:13 | 日々の生活
 最近「クラウド・コンピューティング」という言葉をよく聞きます。ネットワーク図でインターネットが雲の形で表現されることから、コンピュータ・サーバーやソフトウェアやデータをインターネットの向こう側に移し、どこにあるのかを意識することなく、必要に応じて利用する形態です。決して目新しいことを言っているわけではありませんが、言葉が新しいと、なんだか目新しさもあるような気がして、ちょっと気後れを感じたり、有り難味を感じたりもするから不思議です。
 私が会社に入った頃は、ホスト・コンピュータによる集中管理から、パーソナル・コンピューティングに移り変わる頃で、オフィスではせいぜい部単位で数台共有していたパソコンを、一人一台配布するという画期的な宣言を新鮮な驚きとともに歓迎したものでした。データを手元に置いて自分で処理するのが当たり前の時代になり、技術革新とともに取り扱うデータ量は劇的に増えます。初めは文字や数字が中心で、画像データや動画をディジタル情報にしてパソコンで扱うマルチメディア・コンピューティングは夢のまた夢と言われたものでしたが、テクノロジーの進歩は私たちの予想を遥かに越え、画像や動画はごく自然に私たちの生活の中に浸透して来ました。また、個々のパソコンがネットワークに繋がるネットワーク・コンピューティングの時代が到来するとも予想されましたが、それもごく自然に進展し、今やインターネットは水道や電気のように当たり前のインフラと見なされるようになりました。ここ数年、500ドル・パソコンに代表されるように、メールやネット接続を前提にした軽いパソコン、所謂ネット・ブックが、不景気のパソコン市場を牽引しています。この背景にあるのがクラウド・コンピューティングです。
 私はブログを始めてまだ3年にしかなりませんが、初めの頃は、通勤途上や会社で思いついたアイディアをWordに書き留めたり、昼休みにネットで見かけた面白い記事をコピー&ペーストしたものを、わざわざUSBメモリで持ち運び、自宅でブログを書くというような生活でした。しかし今はG-MailやYahoo Mailをメモ帳代わりにするので、USBメモリを持ち運ぶ必要はありませんし、使うパソコンの拘束を受けることもありません。今朝、NHKのある番組を見ていると、「超整理法」の野口悠紀夫さんも同じようなことを言われていました。自分の金を銀行に預けるように、自分のデータをネットの向こう側にあるデータセンターに一時的に預けるわけです。グーグルは発電所になると、梅田さんが「ウェブ進化論」の中で触れられていたのを記憶しますが、まさに電力ならぬITパワーを供給する巨大設備産業に成長しています。
 もっともセキュリティの課題はあります。誰が持とうがお金はお金で、預けるものそのものではなく、いくら預けているか、いくら持っているかが重要ですが、データは属人性があります。しかしNHKの同番組でグーグル日本法人の社長さんが、個人でデータを持っていてもリスクはあるのだと主張されるのは分からないではありません。パソコンや携帯だけではなく、今後、全てがネットに繋がるユビキタス・コンピューティングの時代には、そんなことにいちいち構っていられない(あるいはテクノロジーが解決してくれる?)のかも知れませんね。
 上の写真は本当のクラウド(雲)。晴れていたのに突然のスコールが、それこそバケツをひっくり返したような激しさで襲うのは、熱帯らしい。マレーシア・ペナンで。
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もう一つの20年

2009-11-14 00:36:43 | たまに文学・歴史・芸術も
 ベルリンの壁が崩壊した20年前は、平成の世が始まった年でもありました。あの時(1989年1月7日)、私は、独身寮の寮長室に詰めていました。その前々週にたった三時間の電話当番をサボったばかりに、その罰として、一日電話当番を言いつけられ、よりによって朝から晩まで昭和の歴史を振り返る特番を堪能し、昭和天皇崩御を悼んだのでした。
 昨日・今日と、天皇陛下ご即位20年の祝賀行事が行なわれました。テレビや新聞の報道を見ていると、災害被災地へのお見舞いや障害者や高齢者の施設訪問(即位後に両陛下が訪問された全国の施設はこれまでに170ヶ所!)などを通じて、常に国民に寄添い、日本国民並びに日本国の平和と安寧を願ってきた皇室のありようをあらためて思い知らされました。これは平成あるいは戦後に限った話ではありません。最近、読んだ阿川弘之さんの小説「米内光政」に、昭和天皇の次のようなエピソードが紹介されています。
 ・・・・・昭和20年9月27日、マッカーサー元帥はアメリカ大使館で天皇陛下と初めての単独会見をした。天皇陛下が命乞いに来ると思っていたマッカーサー元帥は、西欧のエンペラーともカイゼルとも感じの違う人がモーニング姿で現れて、「自分の一身なぞどうなってもいいから、国民を助けて欲しい」と言うのを聞き、「世界の歴史にかつてこのような君主がいたのを私は知らない」と、非常な感銘を受けたと伝えられている・・・・・・
 太平洋戦争へと突き進む昭和初期、昭和天皇は陸軍の暴走を懸念され、三国同盟を身体を張って阻止し終戦工作を陰で指揮した米内光政海軍大将のことをこの上もなく信頼されていたそうですが、もし昭和天皇が専制君主であったなら、先の戦争には至らなかったのではないかとさえ思います。これが2000年の皇室の歴史と伝統と言えるのかも知れません。それを今なお守り育てている今上天皇のご努力には頭が下がります。そんな皇室を戴いた日本人の幸福を思わないわけには行きません。
 上の写真は「日出るところの天子」ならぬ、場所はマラッカ海峡の日の出です。
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リーダーシップ

2009-11-11 18:32:02 | 時事放談
 昨日はリーダーシップを讃えましたが、実際には政治家には華々しいあるいは偉大なリーダーシップをそれほど期待すべきではないと思っています。小泉さんはちょっと例外で、そもそも政治家は異なる利害を調整するところに存在意義がある職業であり、利害が複雑に交錯する現代社会にあっては、単純にリーダーシップに瞠目するような場面があるとは想像できません。むしろ小国が危機的な状況にある時こそ、リーダーシップは映えるものでしょう。かつて学生時代の国際政治学の教授が、偉大な政治家として思い浮かぶのは例えばチトーやネールだが、だからと言って、それらの国が豊かに繁栄したかと言うとそうでもないし、逆にアメリカのような偉大な国だからと言って偉大なリーダーがいたわけでもないというようなことを言われていたのを思い出します。
 鳩山さんや民主党にも偉大なリーダーシップは期待しません。むしろ、自民党政権と違うことを強調せんがために、華々しいリーダーシップを発揮して、奇抜な政策を実現しようと取り組むのを目の当たりにすると当惑しますし、害にもなりかねません。中小企業や住宅ローン利用者に対する返済猶予のモラトリアム法案を実現しようとするのもそうですし、郵政民営化を凍結して官営化に逆戻りさせかねない動きもそうで、金融社会主義に舵を切られると、資本市場としての日本の競争力を殺ぐことになりはしないかと懸念します。また、先日、新産業の創出などによる景気浮揚に向けて経済成長戦略を年内に策定する方針を固めたことが報じられましたが、重点分野の二番目と三番目に「環境」と「子ども」があるのは良いとして、「雇用」を筆頭に挙げていたのには、どうにも違和感を禁じえません。勿論、生活を守る、雇用を守ることは大事なことで、党のキャッチフレーズとしては結構ですが、経済成長戦略の筆頭に「雇用」を置いて、介護や農林業の分野で雇用創出策を強化するというのは、明らかに本末転倒ではないでしょうか。
 雇用は生産の派生需要であるのが経済学の基本です。人を雇うために、あるいは雇用を増やすために事業を行なうものではなく、あくまである事業を実現するために人や金を集めて起業し、利益を出して税金を払うことによって地域社会に貢献するのが会社の基本的な姿です。勿論、CSRが謳われて久しいですし、ステーク・ホルダーを満足させることが重要だと主張されるご時世で、それを心がけることが良い経営であるのは間違いありませんが、その逆を当たり前に求めるのは無理筋というものです。それが自由市場のあるべき姿です。もっとも従業員を大事にしない会社は永続しないしいずれ淘汰されるであろうこともまた自由市場の現実だと思いますが、それは別の次元の議論です。先ずは成長戦略ありき。日本航空に見られるように、損失を垂れ流す企業をそのまま存続させれば、最後に割りを食うのは国民であり税金です。福祉社会を実現する北欧諸国でも、弱い企業を存続させるようなことはまかり間違ってもありません、強い企業を育て経済を牽引させることがベースにあります。
 私たちが鳩山さんや民主党に期待するのは、自民党がやったことと違うこと(What)をやることではなく、自民党と違うやり方(How)をやることでしょう。自民党がやったことで正しいことはそのまま引き継げば良いし、無理に違いを演出する必要はありません。違うやり方の一つは、事業仕分けに見られるように、官僚主導ではなく政治家主導で行なう政治であり、もう一つ重要なことは、現在、私たちが直面する問題の原因をどのように考えるべきか、データや数字を使いながら明らかにすることです。原因(症状)を明らかにしてこそ、その対策(処方)の妥当性も判断できます。ただ小泉改革のせいで格差が拡大したと言われても俄かには信じられませんし、貧富の差と言われても実感が湧かないのが正直なところです。派遣切りの問題も数字できっちり議論して、どこに問題があったかを明らかにすべきでしょう。そういう意味で、私たちが期待するのは、派手なリーダーシップではなく、地道でごくありきたりのリーダーシップだと思うのです。
 上の写真は、アートの続編、今から109年前、西暦1900年のリトグラフのカレンダーです。アール・ヌーボー調が良いですね。
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不全

2009-11-10 23:02:11 | 時事放談
 「不全」とは、goo辞書によると、「物事の状態や活動のしかたが完全でないこと、十分でないこと、また、そのさま」であり、三省堂Web辞書には「不完全」と一言書かれているだけです。使用例として「発育不全」「心不全」のほか「呼吸不全」「免疫不全」など、もともと医学用語が多いようですが、最近は、「戦略不全」といった言い方も見かけます。
 以下の引用は、東大が始めたリーダー養成機関「EMP」について、そのアドバイザー・大上二三雄氏が日経ビジネスで語った言葉です。
 ・・・・・東大の問題だけではなく、いま日本全体がマネジメント不全に陥っているのではないかと思います。何が不全なのかと言うと、物事を成し遂げられるか否かは、いわゆるリーダーと呼ばれる人たちの力量に起因している部分がとても多いんです。リーダー達はみな高いスキルや知識を備えていますが、リーダーシップを発揮して行くべき方向をしっかりと定めることができないケースが多いのではないでしょうか。例えば、このプログラム(注:EMPのこと)でも技術論としてのマネジメント知識の講義があり、日本を代表するコンサルタントに話をしてもらっています。そのような授業に、受講生は「それはもう知っている」と反応します。そこで、どこまで出来ているのかを問うと、皆、黙ってしまう。いわゆる、古くて新しい問題です。なぜ知っていてもできないのか。そこが問題なんです。知っていても出来ない。そのことがマネジメント不全を象徴していると思います・・・・・・
 「マネジメント不全」という言葉も出て来ました。わかっちゃいるけど止められない、という歌がありましたが、わかっているけど出来ていない、という問題です。私の会社を見ていても、知人の話を聞いていても、日本人はおしなべて優秀で、所謂事情通であり、調査や分析に時間をかけるだけに資料作りは上手で素晴らしいプレゼンテーションも行なわれますが、実行の段階になるとぱっとしない、結果として業績があがらない、というような事態がよく見られるように思われます。同じような意味合いで、評論家はいるけど実行者がいないとも言われ、また計画は良く出来ているけれど実行が伴わないとも言われるのは、どうやら「不全」状態と言ってよいかも知れません。一事が万事とは言いませんが、なんだか今の日本の閉塞状況を象徴しているようです。
 因みに上の日経ビジネスからの引用には続きがあります。
 ・・・・・(中略)リーダーは一歩前に出ればみんなが付いていくような存在でなければいけません。人を惹き付けてみんなの先頭に立つ。そういう力を付けることがマネジメントだと思います。今、日本に不足しているのは、人間力に裏打ちされたマネジメント能力なんです・・・・・・
 かつてオバマ大統領以前に黒人最初の大統領候補の呼び声が高かった人がいました。湾岸戦争当時のコリン・パウエル統合参謀本部議長(後、ブッシュJr政権で国務長官)で、その彼が「マネジメントは科学、リーダーシップはアート」というようなことを言われていたのを、今でも思い出します。アメリカのMBAに倣って日本でも大学院が開校され、マネジメント教育が広まっていますが、リーダーシップ教育は、アートだと言われるだけあって教えるのは難しそうです。
 今、阿川弘之さんの海軍提督三部作の一つ「米内光政」を読んでいますが、米内さん(帝国海軍大将、戦前・戦中の海相及び総理大臣経験者)は、もし太平洋戦争のような危機的状況がなければ、全く表舞台に出てくるような人ではなかったと言われます。状況が人をつくったのは間違いありません。もともと飛び抜けたリーダーシップは出て来にくい日本ですが、それにしても今の日本で、特に小泉さん以降はリーダーシップを感じません。人を作れないほど枯渇しているわけでもないでしょうに、実はそれほど危機的な状況ではないのでしょうか。
 上の写真は、アートはアートでも、文字通りのアート、バティク・アートです。バティクというのはインドネシアやマレーシアのロウケツ染めで、ペナンのジョージタウンを映したもの。パステル調の、無限のグラデーションがお気に入りの一品です。
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冷戦と民主党

2009-11-08 21:15:06 | たまに文学・歴史・芸術も
 ベルリンの壁は、パンドラの箱のようでした。壁崩壊によって、それまで東西(左右)という単純で固定化された対立構図の中で抑え込まれていた様々な矛盾や問題が解き放たれたと言えます。ハンチントン教授が「文明の衝突」を書いたのはその象徴でしたが、日本の政治状況においても、左派勢力はようやくマルクス・レーニン主義のくびきから解き放たれ、新たな政治状況(政権交代が実現する体制)を模索する動きが生まれ得たのでした。このあたりの状況を、山口二郎氏の「政権交代論」(岩波新書)から拾って見てみます。
 最初の動きは1993年7月の総選挙で起こります。日本新党、新生党、新党さきがけが躍進し、非自民勢力で過半数を獲得した結果、細川連立政権が誕生しました。しかし、政治改革を実現するという一つの目標を共有していただけで、本格的な政策転換を推進する体制からは程遠く、僅か10ヶ月で崩壊することになります。こうした野党勢力の混迷状況は、1996年9月に、社会党右派とさきがけを中心として結成された旧・民主党でも、また1997年末に新進党が解体し、そこから分かれた諸政党や、旧・自民系、旧・民社系、かつての日本新党所属議員が合流する形で結成された現在の民主党でも、変わりませんでした。2003年9月には、小沢さん率いる自由党と合併し、保守層からも支持を得て、野党第一党としての地位を明確にしますが、諸勢力を糾合した政策的な曖昧さが、政権政党に脱皮するための足かせになっていました。実際に、小泉さんが構造改革を叫んだ時、当時の鳩山さんは小泉改革に賛同し、自民党が妨害するなら民主党とやろうと応えたことがあり、山口氏は同書の中で、見当違いなこととして一蹴しています(私にはそうは思えませんが)。このあたりの事情を、山口氏は同書の中で、改革論の方向性の違いとして、市場化のベクトルと市民化のベクトルとの二つの軸に分けて、鮮やかに整理されています。
 市場化のベクトルとは、公共政策の領域を縮小し、市場原理を拡大することによって、政治・行政システムを変革するもので、橋本さんの財政構造改革や小泉さんの構造改革路線にあたります。法の解釈権をもって官僚が恣意的・選択的に市場に介入することが市場の効率化を阻害し、行政の腐敗を招くという発想から、官僚の裁量権力・規制権限を廃絶して規制緩和を進め、市場に全てを任せる方向性をとります。これを表現するキャッチフレーズとして「官から民へ」や「小さな政府」があります。
 これに対し、市民化のベクトルとは、民主主義を徹底することによって、政策形成のひずみを是正する方向の運動のベクトルです。これは、民主的な参加によって政策を市民・生活者向けに切り替えることを目指すもので、公共セクターの政策の領域事態を縮小することが政治の浄化と生活者の利益実現という双方の目的に適うと考える市場化のベクトルとは、明確に異なります。
 1990年代は、改革が巨大官僚組織と戦うことを意味したため、市場化と市民化がある程度まで共闘できたと言います。そして結党当初の民主党も、非自民・改革という曖昧な看板だけで、構成議員の雑居状態を反映して、民主党の性格は市場化と市民化が雑居状態で、政策的な基軸がありませんでした。その結果、小泉さんが掲げる改革との間で明確な対立軸を打ち出せなかったことを反省されています。
 ところが、2005~06年頃、マンションの耐震強度偽装事件、ライブドアの粉飾決算事件、米国産牛肉の安全性を巡る議論、格差・貧困問題など、自由放任や規制緩和がもたらした弊害が相次いでメディアに取り上げられ世論の関心を煽った上、民主党内で政治力学が変化する事態が発生します。所謂堀江メール問題で、当時の国会対策委員長・野田さんに続いて前原さん自身も代表を辞任し、党内で市場化ベクトルを志向する松下政経塾出身の若手議員が押しなべて発言力を失った結果、民主党として市場化ではなく市民化ベクトルを採る改革者の路線が明確になって行きました。前原さんの後を継いだ小沢さんは、憲法や安全保障政策は争点とせず、社会保障や雇用を中心として国民の生活を支える社会経済政策を追求するという形で、自民党との二極的対立の構図を明確にしたのでした。小沢さんらしい現実的な政治感覚のなせる技でしょうか。
 このあたりの論考は、民主党の結党に関わり、その後も民主党を間近で見て来られた山口氏ならではの迫真性を感じ、面白く拝読しました。しかしながら、小泉改革を単純に新自由主義的構造改革と決め付け、新自由主義のもとでは経済効率と利益追求のあまり人間をモノと同じように扱うと断罪し、その新自由主義的改革は破綻したと軽くいなし、民営化は「安かろう悪かろう」の質の低下傾向をもたらすと非難するなど、物事を単純化し、市場に信を置かない偏り加減は、左派あるいは社会民主主義者を自認する氏らしく、私自身は容易に相容れないものを感じてしまいます。
 いずれにしても、冷戦終結によって崩壊したのはソ連型社会主義であって、マルクス主義そのものではなく、資本主義に対する批判精神は一つのアンチテーゼとしてアウフヘーベンされ、現にイギリスやドイツなどでは第三の道と呼ばれて政権を担っています。日本でも、シュレジンジャー氏が言うような三十年の周期的変化が起こり、理想主義と現実主義の間を揺れ動きながら、民主主義が成熟していくのでしょうか。
 上の写真は、壁は壁でも、オーストアリア・キャンベラの戦争記念館にある壁です。もとは第一次大戦の戦没者を追悼する目的で設立されたもので、建物の中心に追悼ホールがあり、この回廊の壁にはオーストラリアの全ての戦没者の名前が刻まれています。
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冷戦と自民党

2009-11-07 12:20:44 | たまに文学・歴史・芸術も
 冷戦終結のきっかけとなったベルリンの壁崩壊(1989・11・09)から20年が経過するので、新聞等でも特集が組まれるのを見かけることが多くなりました。もとより永続的なシステムはないのですが、子供の頃から、軍拡・軍縮やデタント、恐怖の均衡、包囲や関与政策、社会主義と社会民主主義、進歩的知識人など、さまざまなキーワードが冷戦構造の文脈の中で語られるのを聞いて育った私にとって、ショックは決して小さくありませんでしたし、歴史は動くものであるという事実を初めて知った衝撃的な瞬間でもありました。
 かつての日本の政治風景も、まさに世界の冷戦構造をコピーしたかのような様相でした。自民党の一党支配は冷戦構造を前提としたものと言えます。中共成立から暫くは社会主義の現実の脅威があり、保守合同で55年体制が産み落とされた裏では、アメリカ(CIA)から資金が拠出されていたと言われていますし、その後の長い間、当時の野党第一党だった社会党が、イギリスやドイツの社会民主主義的な政策を掲げるのではなく、明らかにマルクス・レーニン主義的であったために、自民党の敗北は自由主義・資本主義の敗北であり、日本の社会主義化を意味するものだと受け止められ、却って圧倒的・安定的な支持を集めてきたというのが事実だろうと思います。
 その自民党が一時的にせよ野党に転落したのは1993年のことで、そこから長い凋落期に入り、一時的に小泉人気で復活したように見えましたが、その勢いを支えきれず、ついに与野党逆転に至ったのは、そもそも冷戦構造の崩壊に起因すると思います。
 自民党は、良くも悪くも派閥政治と批判されてきた通り、それこそ右派から左派まで、あるいは自由主義的な発想から社会民主主義的な発想まで、さまざまな主義・主張を取り揃えたヌエのような存在で、派閥間の調整を通してさまざまな政策を繰り出し、折からの高度経済成長を背景に、強い経済が産み出した富を公共投資や農業などの遅れた分野に助成する形で再分配することによって、比類なき平等社会を実現し、野党がつけ入る隙を与えませんでした。実際に、農業などへの補助金や地方への公共投資が妬みを買うことはあっても、都市部のサラリーマンも経済成長によって豊かさを実感することが出来ましたし、終身雇用と年功序列によって安定した人生を確保することができたため、地方間格差や職業間格差が議論になることはありませんでした。仮に問題が発生しても、成長する経済のもとでは、問題が大きくなる前に自然に解消していたと言えましょう。
 そういう意味で、内では成長する経済のもと、外では冷戦と日米安保という固定化した安全網に守られて、自民党は何もしないでも文句を言われることはなかった。否、誰からも文句を言われないように、各種利害を調整しながら、皆が等しく潤うようにあまねく富を再分配していただけのことでした。先の施政方針演説で、成長戦略がないと批判された鳩山さんが、自民党からそんなことを言われたくないと切り返されたのは、まさにその通りであろうと思います(鳩山さんには、自民党との違いを浮き立たせるために、もうちょっと別の言い方があっただろうと思いますが)。
 自民党が窮地に陥り批判に晒されるようになったのは、自民党政治を支える富の再分配システムの源泉である富が枯渇したから、すなわち日本の経済成長が止まってしまったからです。日本の経済成長が変調を来たしたのは、バブル経済が崩壊し、バランスシート調整に戸惑っている間に、冷戦構造が崩壊し、それまで敵視され停滞していた東欧や中国などの東側諸国が開放政策に転換し、世界中から資本を集めて成長し始め、経済における競争環境がどんどん変わってしまったからです。冷戦構造の崩壊によって、真の意味でのグローバル化が進展し、インターネットを中心とするIT革命がそれを加速しました。
 小泉さんを継いだ安倍さん、福田さんの総裁選びは、ケインズが言うところの「美人コンテスト」であり、そこでの自民党政治家に「勝ち馬志向」症候群(バンドワゴン効果)があった(山口二郎著「政権交代論」)ことは事実であり、保守合同を知る政治家が一線を引き始めて派閥政治が弱まったことと歩調を合わせるように自民党が弱体化したと言うのも、幕末維新の白刃の下をかいくぐった政治家が引退して日本が戦争に向かう暗黒の時代に突入したという歴史的事実と符合して、興味深いですが、いずれにせよ自民党が賞味期限を過ぎたと揶揄されるほどの環境変化があったことは間違いありません。
 この環境変化は不可逆的なものであり、自民党は再生なくして復活はあり得ません。小泉さんの構造改革も、こうした歴史的文脈の中で私は理解して来ました。冷戦構造とその元での経済成長によって可能となった豊かさのシステムとマインド・セットを克服できるかどうか、これはひとり自民党だけではなく、現在の政権党や私たち国民に突きつけられた課題でもあります。
 上の写真は、壁は壁でも、2008年に世界遺産に指定されたマレーシア・マラッカのセント・ポールの丘の麓にある、当時、東洋一の堅牢さを誇ったという、ポルトガル時代以来のサンチャゴ砦の一部です。その後、イギリス軍に破壊されたため、現在、残っているのはオランダが再建した門だけなのだそうです。マラッカには、ポルトガル、オランダ、イギリスによる統治の歴史が重層的に折り重なり、さながら世界史の縮図を見るようで、なかなか興味深い。
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松井選手

2009-11-06 01:14:12 | スポーツ・芸能好き
 米国時間4日のワールドシリーズでフィリーズを下したヤンキースは、9年振り27度目の世界一の座を掴むとともに、松井選手が日本人初のワールドシリーズMVPに輝きました。7年前、自らを裏切り者呼ばわりしつつ涙目で決死の覚悟を語ってメジャーに旅立った松井選手の姿を思い出すにつけ、またここ三年間年は、左手首骨折、右膝、そして古傷の左膝と、毎年のように手術を強いられ思い通りの結果を残せなかった上、4年契約が切れる今年は再契約がないとまで報道されるなど不本意なことが続いただけに、本当に良かったと思います。
 松井選手と言えば、強運の星のもとに生まれたものだと感心します。1992年、高三の夏の甲子園でまさかの5連続敬遠は、本人にとっては不運でしたが高校生らしからぬ潔さが話題になりました。その年のドラフトで本人は阪神入りを希望していたと言われますが、松井選手を引き当てたのは、13年振りに巨人軍監督に復帰した長嶋さんでした。2003年、メジャーデビュー戦の初打席では初球を打って初安打・初打点、本拠地ヤンキースタジアムのデビュー戦では満塁本塁打、2006年の左手首骨折からスタンディングオベーションで迎えられた復帰戦では4打数4安打と、節目で記憶に残る活躍をしています。自らの勝負強さが引き寄せたものと言えましょう。
 クールで現代的ヒーローとも言うべきイチロー選手とは好対照をなして、松井選手はちょっと安心するほどの古いタイプのヒーロー、王さん、長嶋さんなどの系列に繋がります。来年もピン・ストライプのユニフォームで活躍する姿を見られると良いですね。
 上の写真はピンストライプ!?のシドニー・オペラハウス。
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