今日は朝霧が凄かった。実に幻想的な風景である。私が住んでいる付近は結構このように霧が出ることがある。気温が急激に上昇し冷えた空気と混ざって起こる現象だろうと思う。霧もよく観察していると濃いところと薄いところがある。自然はどちらにしても美しい。神秘に満ちてもいる。たまに、虹を見るときもある。古来人間は自然と共に生きてきた。これからも未来永劫こうしていくのが自然の摂理であろう。自然は摩訶不思議な世界でもある。自然は懐深くだれにでも手をさしのべてくれる。私たちはそれに身を任せるだけでいい。だから、人は癒される。自然は一時たりとも同じ事はない。その刹那刹那で状況を変えていく。喜びも悩みも 絶えず変化していく。
今の時代に一番欠けていること、それは畏敬と感謝と謙虚な心だと思う。人は自然の一部でもある。自然の一部であると悟るとき、人は自然から畏敬という二文字をいただく。
東から出て、西に沈む太陽。よくウォーキングをするときに、夕日を見るのだが、サンセットということばを思い起す。沈んでいくんだが、やがて、また、東の空から昇ってくる太陽。それを見ていると太陽の持つとてつもなく大きなエネルギーを感ずる。今日も一日終わったなという感じだ。一日一生ということばもある。確かに一日一日はこのようにして、希望に始まり感謝に終わるのだろと思う。そして、この営みは永遠に続いていくのだろうと思う。しかし、やがて何億年か立てば、太陽も自然の流れには逆らえず、寿命を迎え、大きな自然の流れの中で消滅し、他の物に変わって行くことだろう。自ずと然るべきこれが自然である。必ず自ずと然るべき所に落ち着いていく。人は自然には逆らえないのだ。自然を利用したつもりでいるだけである。それで、天寿を全うする。(個人はそうであるが、人類は子孫を残しつながっていく。だから、一人で生きていると思ってはいけない。祖先や子孫のことも考えなくては、また、周りの人のことも)
自然のリズムに乗って感謝して生きていくのがいい。大河の流れの中の手こぎボートのようなものである。自分の力で船を漕いでいると思う。だが、遠くから眺めれば確実に大河の流れに押し流されている。だから、大河の流れを遙か彼方から、混じりけのないピュアな心で見なくてはいけない。そう考えれば、虚飾と嘘が混じり合う自分で漕いでいると思うボートのような現実の世界も見えてくるだろう。その現実の彼方にある世界を感じつつ毎日を生きて行くことの大切なことが分かってくるだろう。
古来人間は太陽や光を神とあがめてきた。いつのまにか、その恩恵を忘れ、独りよがりになり、万物の霊長などとおこがましいことを言うようになったのだろうか。人間は決して万物の霊長ではない。自然の一員なのだ。その辺から温暖化という問題が出てきているのだろう。今、100年に一度といわれる不況の底なし沼の中に我々はいる。しかし、これとて、なるようになっている自然現象として今があるのだと思う。朝の来ない夜はない。「おごれる平氏も久しからずや」だ。平家物語もこの辺の真理をいっている。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ (平家物語序文) 人の心は今も昔も同じことかなと思わずにはいられない。ただ、気になっていることに、現代人はしゃべりが少し早くなっていないかということだ。この辺が、時々気に掛かっている。昔はもっと悠長にのんびりしていたと思う。この速度がどういう問題を起こしているかが興味深く感ずる。学校の音読でも、昔話を読む場合は幾分遅めに読むのがよいだろう。