想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

任運騰騰(にんぬんとうとう)自然の流れの中で!

2024年08月20日 | エッセイ
コロナ5年8月20日(ウクライナ、ロシア戦争3年)

 先日、健康だけでは生きていけないという80代の方の貴重なお話に感銘を受けました。そうだ、まずは健康だが、その先にあるものは、健康だけではない。生きがいというか、やりがいというか、生きるべきことが分かっていることが大切だなと感じました。

 精神的な支えでしょうか。生きながらえている価値にめざめないと、何のために自分はいるんだろうという根本的なことがすっぽり抜けてしまう。やたら長寿がいいわけではない。生ある間の生き方が問題なのだ。どう生きてどんな足跡を残したのか。

 社会や人のために生きた人と、自分だけに生きた人をみれば一目瞭然だ。問題はその中身なのだ。だから、単に寿命ばかりを強調しても意味はない。実際に行なった良いこと(X軸)、年齢(Y軸)をグラフで表したときに、その面積の広さで考えるのが、合理的だと想う。

 仮に20年しか生きなかった人がいたとしても、その広さが100の人と、100歳まで生きたとしても、その広さが80の人がいたとするならば、結果的に、寿命は20歳で短命だが、社会へのインパクトでは100歳生きた人よりも100-80=20で20多く社会に貢献したことになる。それだけ、生きた価値があったというべきだろう。

 今、やたらと長生きばかり言っているが、問題は、どう人生を生きてきたかという、その中身こそ最も大切なことではないでしょうか。もう一度、寿命ということについて新ためて考えることが大切ではなかろうか。

 そういう私も、今後どう生きがいを持って天寿を全うしようか?自問自答している毎日である。老いてもなお生きる未来があるといえる命を生きてこそ、本当に長寿を喜ぶことができるのであろう。知るは神のみ、我が人生も神のみぞ知る心境である。あとは天に任せた。

 広くは私の人生とて、自然の摂理(自称私の信ずる神)の中で、神の意志で生かされているのだから、自分で生きているようで、結果生かされている自分が現存している今がある。実に不思議だな。奇遇だな。合縁奇縁だな。年数を重ねる程にその感は強くなる。

 所詮、この世のことは己の意志では理解できないことなんでしょうね。年を重ねるほどにこの想いは膨らんでゆく。こういう私もいつの間にか、神に導かれてここまで来てしまった。こういうことは、やはり、若さよりも77歳という年の功かなとつくずく想う。

 今後、高齢社会を生き抜くために、どんなことをすればいいか、自問自答してみた。以下に自分なりにまとめてる。

・幸福感が高く、自分の人生を肯定的にとらえる(ポジティブシンキング)
・自分を取り巻く環境と調和的に生きる。(外交性)
・好奇心探求心こそ、生きる源泉
・静と動の調和の中に身を置く。弁証法的にとらえれば、正反合ならず、静    
 動合かな。両者のバランスこそが大切
・森羅万象、すべてはバランスの上に成り立つ、これが崩れた時が危ない。
 (地球上では人口が多くなりすぎ、バランスが崩れてきている。過去の1億が今や80億余に)
・好き嫌いや偏食をしない。(食でも、思想でも)
・変化の時代、偏見と常識は捨て、本質から創造する。
・伝統は不易なものでなく、常に新しい有益な価値を加えて作るもの。
・あるがままみつめ、そこから行動する。
・自分とは自らの分け前であり、唯一無二の存在、だから価値がある。そこに気づき、そこを伸ばす。

 成るようになり、成るようにしかならない人生、生きて来たように死んでゆく、ケセラセラ、人生とは他人と比較してもどうにもならない。毎日を愚直に生きてゆくだけ。諸行無常はこの世の常、ただ、ただ、不易流行の中を生きてゆく。こうして、いる間も月日は流れ、私は残る。
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