最近めったに風邪をひいたことがないのに、ここ1週間鼻かぜをひいてしまい体調がおもわしくない。そうだ、自然界でも雨の日もあれば、風が強い日もある。寒い日もあれば、あったかい小春日和の日もある。人間だって、調子のいい日ばかりはないのが自然なことだ。なんだか、自然のことを考えたらなるほどと納得してしまった。
こういうことがあることが当たり前であり、むしろ自然な状態だ。身の回りで起こったことを素直に認めて受け入れる生き方こそ、自然な肩に力の入らない生き方だ。あるがまま、あるがまま、なせるまま、なせるまま、なるべくしてなったまでのこと。あとは自然治癒力に待つのみ。
そして、なぜ、風邪をひいたか、なるべくして今というときがあるのだ。因があり縁があり、そして、結果、風邪をひいただけのこと。因とはもともと風邪をひく素因を誰もが持っているというところに私の場合は、喉や鼻の粘膜が少し弱いところに、まともにエアコンの乾燥した空気が当たったからたまらない。また、当時はちょっと、疲労がたまっていて余計にストレスがかかったからかもしれない。
幸い今日は仕事も休みでもあり、極力仕事から遠ざかり、パソコンに触らないようにし、ゆっくり新聞を読んだり、温泉に行ったり、好きな野菜作りに励んだり、(今日はジャガイモ用に畑を耕し、そこに「インカのひとみ」と「きたのあかり」という品種の種芋を植えた。芋ができるのが楽しみである。)また、久しぶりに好きなクラシック音楽を堪能した。白鳥の湖やモーツアルトのバイオリン協奏曲3番である。やっぱりクラシックはいいな。心が休まるし、ストレスも全然なくなる。小さいときからもっと、演奏の技術を身につけておけばと思うが、時すでに少し遅い。まあ、お遊びでもちょとできればいいか。
広く浅くなんでもちょっとばかり首を突っ込むのが私流のやりかた。すべてMy Wayがいい。残りの人生肩の力を抜いて自然体でいこう。
世の中頭のいい人はたくさんいるが、それにプラスして周りの情緒までも感ずることの出来る温かい心を持った人にはめったにお目にかかれない。でも、実際にいることは確かだ。現にその人となりに触れてみて、ほんとに幸せな気分を感じた。最近では久しぶりのことである。いわゆる尊敬できる人徳のある人である。
人間の目指す究極の目的は幸せ感である。幸せはどの人にも平等にチャンスが与えられている。幸せは心の問題だから。ただ、それに気づき、つかむ人とそうでない人がいるだけだ。人生はその幸せをつかむ側に回ることだ。打算でいっているのではない。うまく物事を進めようと思ったら、相手から善を引き出すことだ。善を引き出すことに成功すれば世の中はいい方向へ進む。相手の悪を引き出してしまうから、悪いほうへ悪いほうへいってしまう。
何でも明るいものの見方をする人がいる。その人はいつもいつもその明るさに目がいき明るいものの見方だ出来る人だ。確かに、人間くらい面も持ってはいる。しかし、明るい面も持っている。どうせ着目するなら、明るいほうへ着目したほうが、その後の人生明るくなる。
その人はいつも人の話を論理ばかりでなく、その人の息遣いや微妙な雰囲気まで感じ取ってしまう、まれにみる能力に秀でた温かい人柄の人。そして、その論理の組み立てを人の幸せのために用いることの出来る倫理観が身についた人、的確に相手をさりげなく気遣いながら話を進めることの出来る人。その人の話そのものに思いやりの心があふれているのだ。
その人が政治家になればもっとすばらしい仕事ができることだろう。その人と接するとき、私もその幸せ感を与えられる。その人の目指すべく方向は邪心のない温かい心を持った人の進むべき方向であるからである。その人についていけば多分大きな間違いはないだろう。そういう人が数は少ないが世の中にまだ、いるという感触を得た。日本もまだまだすてたものではないなと思う。
今日は虹を見ることが出来た。ラッキーだった。最初は少しぼんやりして見えていたが、次第に半円形の大きな虹になり、左側が海面から右側が地平線の向こうから見え、大きな半円を描いていた。こんなに大きな虹は最近珍しいと思った。これが、オーロラだったらもっと幻想的ですごいだろうなと思った。とにかく、自然現象のすばらしさにはいつも感心する。ほんとに芸術以上のものがある。自然を眺めているといつも心が安らぐ、自然はある種母親の懐のような気もしてくる。母なる大地という言葉もあるが、母なる自然の懐の深さかなとも思う。
虹が出来ているところでは、霧が出来ているのかなとも思う。そうして、いるうち、私の頭上にも雨がぽつりぽつり降ってきた。虹の出来ている向こうでも軽い雨が降っていたのかもしれない。そこに日光が当たってきっと虹が出来ていたのだろう。
「Over the Rainbow 」という歌を思い出し、思わず口ずさんでしまった。虹の橋を渡っていけたらすてきなことだと思う。もはやメルヘンの世界だ。最近の子供はこのような虹を見たことがあるだろうか。こんなことをいつしか考えて歩いているといつの間にか、跡形もなく虹は消えてしまった。はかない命だなと思わずにはいられなかった。自然は一瞬たりとも同じではない、だから、自然なのだ。
Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?
虹の向こうのどこか空高くに
子守歌で聞いた国がある
虹の向こうの空は青く
信じた夢はすべて現実のものとなる
いつか星に願う
目覚めると僕は雲を見下ろし
すべての悩みはレモンの雫となって
屋根の上へ溶け落ちていく
僕はそこへ行くんだ
虹の向こうのどこかに
青い鳥は飛ぶ
虹を超える鳥達
僕も飛んで行くよ
やる気、根気、呑気、元気、心意気、気性、意気込み、気合い、気力、気遣い、気概、気色、気分、雰囲気、色気、運気、根気、気孔、気功、精気、生気等 「気」のつく言葉は実に沢山ある。しかも、ほとんどが、人間の精神と関連している。しかし、この言葉の持つ「気」は文に表したり、記録として保存しておくことができない。その生きている人から出ている一種のエネルギーである。いくら伝記を読んでも、その人の生き方はわかるけれども、本やメディアで接しただけではこの気にふれることはできない。生身の人間と接することにより、初めて、その気にふれることになる。本物にふれる。生身の人から学ぶ、このことが大事である。
気が合うという言葉がある。理屈を超えて気が通じ合っている状態だと思う。理屈を超えたところに気がある。気が抜けて気後れしていてはだめである。
朝のウォーキングをしている時のことである。前に行こうかと思っていると、前方に実に奇妙な物が道路に置いてあった。何だろうと近寄ってよく見ると雑草の枯れ枝であった。それも道路の真ん中に、誰がおいたのだろうか。多分風に飛ばされてきたのだろうと思う。それにしても、枝だけのスケルトンとはおそれいった。それにしても、実に不可思議な状況だった。狐に包まれたような感覚だった。不思議な出来事もあるものだなと思った。