コロナ3年5月17日(ウクライナ侵攻元年)
スイカズラの花の咲く季節になりました。かすかな甘い香りがとても心地よく感じます。
野山を散策してますと、今、あちこちにこの花が見られて豊かな自然に囲まれている幸せを感じます。
自然はなぜこうも懐が深いのでしょう。観ていると何故か自己が消え失せ自然の一員になってしまいます。いつのまにか自我がどこかに消えてしまっています。
まさに自然の一員になった喜びの瞬間です。こうして人は自然の中に埋没していきます。そして、永遠の生命を得るのです。
私は墓碑に感謝と畏敬の念を刻むと決めました。こうして、いつか、永遠の生命の世界に旅立ちます。
オギャーと生まれ、訳あって、この世に誕生した自らの分け前である自分も百年有余の生を全うしたのち、やがて、その生はいつしか誰でも平等にその生を消滅させる時期を迎えます。
しかし、そこに宿った心は永遠です。宇宙というとてつもなく広い空間で永遠に存在します。形も質量もなくただ心という意識というか魂だけがあるのです。
だから、どれだけいても混み合うこともありません。全てが満たされたそれはそれは浄土の世界です。幸せに満たされた世界です。天国といっても良いでしょう。
人の住む世界では時は流れ、諸行は無常となり形あるものはいつしか無を迎えます。
しかし、浄土の世界はこの時の流れから解放され永遠に続く世界です。永遠に続くのですから、時の流れはあったとしても、無きに等しいのです。永遠にどこまでも続いてゆくのですから。
私はこれを宇宙の生命と呼んでいます。宇宙の生命から数えればたかが人生百年なんて、ほんの一瞬です。また、だから、その一瞬がまた尊いのです。
宇宙の生命により誰もがこの世に生を受け生かされているのです。この生かされている訳を見つけるのが人生なんです。それが自らの分け前である自分なんです。
この大いなる意志が神であり、だから、みんな神の子です。その裏に畏敬があるのです。大いなる意志のもと、小なる意志である自分が存じているのです。
だから、誰もが尊いのです。だから誰にも自尊心があるのです。それが自己肯定感に繋がっていくのです。
私にとって人生とは、その大いなる意志を見つける過程そのものなんです。