寛弘元年十一月 一日、辛亥。
外記庁に参った。源納言(俊賢)を日の上卿とした。右衛門督(藤原斉信)が内裏に参って、御暦奏の上卿を勤めた。一条天皇は御物忌であったので、事情を奏上させた。内侍所に赴いた。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
寛弘七年十一月 一日、丙子。
内裏に参った。仗座において、蔵人季任が宣旨を下した。権少外記我孫孝道が、御暦奏が揃っているということを申した。季任を介して奏上させた。一条天皇がおっしゃって云ったことには、「通例として行なうように」と〈御物忌である。そのことを加えておっしゃるべきであった。ところが、ただ云ったことには、「通例によって行なうように」と。出御が行なわれる際の儀のようなものである。失儀である。〉すぐに南座に赴いた。外記を召して、これを伝えた。天皇は御物忌であったので、出御されなかった。内侍所に託した。次に左府の許に参った。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長和二年十一月)一日、己丑。
頭中将(藤原能信)が、初めて御暦奏を奏上した。未剋であった。枇杷殿から女方(源倫子)が退出した。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長和五年十一月)一日、辛丑。
(略)内大臣(藤原公季)は、陣座(じんのざ)に着して、御暦(ごりゃく)を奏上した。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)