発展途上国をどのように経済成長させていくべきか、という問題がある。何のために?アメリカ金融業界の需要を満たすために。スティグリッツが証言台に立ち、世界に訴える。工場を持たず、酸素を吸って二酸化炭素を出すでもない、オカネというものは、目に見えないところでとんでもない動きかたをしているらしい。
著書のひとつ、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で、ワシントン・コンセンサス(IMF、世界銀行、アメリカ財務省の合意)に基づいたIMFの開発政策、その自己中心的な行動原理や閉鎖的内部構造、そして政策の失敗などについて触れている。
経済発展とは、各国の、経済的進歩の歴史である。
というクラークの定義。経済発展は、歴史の一部であり、あるべきなのだ。彼らの政策は、各国の歴史から浮いたものであり、いろんな不連続を生み出し、混乱を招いた。そんな記述を見ていて、日本の経済学者は何をしていたのだろう、と思ったりもする。他のどの先進国より、南アジアの経済状況を把握し、予測することに長けているはずだと思ったからだ。高温多湿、家父長制が根強い、人口が多く、「自発的近代成長」を試みている―――日本は特異な、後進国としての最初の経験をした国である。日本人の方が理解しやすい、経済発展の視点があってもいいのではないだろうか。ま、それが他国や、既存の国際組織に影響を与えられるかは別問題だが。
リカードは、アジアのような「定住してから久しいが、原始的生産の供給が人口増加に追いつかないために、人口過密のあらゆる弊害が生じている国」を「過剰人口低開発社会」と名づけた。そして、唯一の有効政策は、人口制限であると考えた。
そして人口制限は、所得水準の低い階級の経済的向上意欲(economic aspiration)を誘発することによってのみ可能である
と主張した―――これを読んで、これはIMFより頭がいいな、と思った。経済的向上意欲、「ただ生きていればそれでよい」という行動原理からの脱却。人間は意欲によって生きているのだ。ちょっと目が開かれた思いがした。