『五体不満足』を書いて世に知られた、乙武さんが、この4月から杉並区の小学校の教師として働き始めている、という話は有名かもしれない。彼が、教育に興味を持ち、教師という職業を選び、働くまでに資格を取ったり勉強をしたりした経過と彼の考えをつづった本が、『だから僕は学校へ行く』だ。
ベストセラーを書いた後、スポーツ選手へのインタビュー、物書きとして5年が過ぎ、「そろそろ、新しい、人生をかけて極めたいと思うような道を決める時が来ているんじゃないか」と思いつつも、それが何なのかわからずに、悩んだ時期から始まる。
新宿区の小中学校、養護学校を視察し、レポートをするという区のプロジェクトの一種みたいなものとして、視察をし、また海外の小学校での経験や、不登校児を受け入れるNPO団体の施設なども紹介。体罰や、学力低下、学校安全なども問題に素直に「なぜ?」と切り込んでいく。
たとえば運動会。競争原理への過敏な反応から一時は「徒競走の順位をつけない」なんて滑稽なことがあったこともあるらしいが、現在はどうなのか?負傷するリスクの高い棒倒しなどは、今も実施されているのか?・・・という項では、運動会の歴史を引っ張り出してくる。富国強兵策の一環として、体を鍛える機会を!と始まった運動会。義務教育も始まったばかりの当初、適当な場所が無く神社やお寺の境内を使った。神社や境内に人が集まるんだから、盆踊りやイベントごとも一緒にやったらいいじゃないか、とお祭り調が加わって、外でのお弁当を楽しみにするような会になっていった。一方、政治団体が集会の場所を求め、運動会と称して「与党を倒せ!」と棒倒しをやったりしていたらしい。この部分が一番面白かった。
こんな調子で、現場、その制度の確認、成立と変遷、個別的な取り組み、そして彼の考え、と、重くない本ではあるが、しっかり出来ている。
「ある世代にある格差を、一度リセットするための公教育」だから、公立の学校にこだわったという彼。ルポ形式の文章に、「それは言いすぎでしょう」というような印象を持つことが多いが、この本にはなかった。現場の雰囲気がよく見える感じの本だ。
各小学校の様々な工夫を読みながら(立ち読みだったのだけど)、「こういう個別的な工夫を、どこか”小さなこと”と軽視していた」自分に気づいた。制度、制度、大きな影響力を持つものを、なるべく見るようにしてきた。それが経済学という学問が得意とする領域だから、だと思う。でも、ひとつひとつの工夫――例えば、外国人やハーフの子供が多い大久保の小学校では、毎月「おはよう」が違う。ある月は中国語、ある月はタイ語、というように。全校生徒が100人を切った小学校では、父兄が「親慈会」を作って、街ぐるみで学校の取り組みをサポートしている――は決して”小さい”ものではなかった。正解がなく、だからこそ個別的に、個性的に、無理なく模索していかなければならない教育の問題は、介護の問題とも重なるところが多いように思った。
耳をすませて聞いてごらん
未来の自分が言う言葉
NHKで特集されていた、自閉症の子供が書いた詩の一部。
いつかは、私も「人間ひとりひとりと向き合うサービス」がしたくなるんじゃないかな―――未来の自分の影がちょっぴり見えた。
ベストセラーを書いた後、スポーツ選手へのインタビュー、物書きとして5年が過ぎ、「そろそろ、新しい、人生をかけて極めたいと思うような道を決める時が来ているんじゃないか」と思いつつも、それが何なのかわからずに、悩んだ時期から始まる。
新宿区の小中学校、養護学校を視察し、レポートをするという区のプロジェクトの一種みたいなものとして、視察をし、また海外の小学校での経験や、不登校児を受け入れるNPO団体の施設なども紹介。体罰や、学力低下、学校安全なども問題に素直に「なぜ?」と切り込んでいく。
たとえば運動会。競争原理への過敏な反応から一時は「徒競走の順位をつけない」なんて滑稽なことがあったこともあるらしいが、現在はどうなのか?負傷するリスクの高い棒倒しなどは、今も実施されているのか?・・・という項では、運動会の歴史を引っ張り出してくる。富国強兵策の一環として、体を鍛える機会を!と始まった運動会。義務教育も始まったばかりの当初、適当な場所が無く神社やお寺の境内を使った。神社や境内に人が集まるんだから、盆踊りやイベントごとも一緒にやったらいいじゃないか、とお祭り調が加わって、外でのお弁当を楽しみにするような会になっていった。一方、政治団体が集会の場所を求め、運動会と称して「与党を倒せ!」と棒倒しをやったりしていたらしい。この部分が一番面白かった。
こんな調子で、現場、その制度の確認、成立と変遷、個別的な取り組み、そして彼の考え、と、重くない本ではあるが、しっかり出来ている。
「ある世代にある格差を、一度リセットするための公教育」だから、公立の学校にこだわったという彼。ルポ形式の文章に、「それは言いすぎでしょう」というような印象を持つことが多いが、この本にはなかった。現場の雰囲気がよく見える感じの本だ。
各小学校の様々な工夫を読みながら(立ち読みだったのだけど)、「こういう個別的な工夫を、どこか”小さなこと”と軽視していた」自分に気づいた。制度、制度、大きな影響力を持つものを、なるべく見るようにしてきた。それが経済学という学問が得意とする領域だから、だと思う。でも、ひとつひとつの工夫――例えば、外国人やハーフの子供が多い大久保の小学校では、毎月「おはよう」が違う。ある月は中国語、ある月はタイ語、というように。全校生徒が100人を切った小学校では、父兄が「親慈会」を作って、街ぐるみで学校の取り組みをサポートしている――は決して”小さい”ものではなかった。正解がなく、だからこそ個別的に、個性的に、無理なく模索していかなければならない教育の問題は、介護の問題とも重なるところが多いように思った。
耳をすませて聞いてごらん
未来の自分が言う言葉
NHKで特集されていた、自閉症の子供が書いた詩の一部。
いつかは、私も「人間ひとりひとりと向き合うサービス」がしたくなるんじゃないかな―――未来の自分の影がちょっぴり見えた。