ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

だから僕は学校へ行く

2007-04-15 21:40:51 | Book
『五体不満足』を書いて世に知られた、乙武さんが、この4月から杉並区の小学校の教師として働き始めている、という話は有名かもしれない。彼が、教育に興味を持ち、教師という職業を選び、働くまでに資格を取ったり勉強をしたりした経過と彼の考えをつづった本が、『だから僕は学校へ行く』だ。

ベストセラーを書いた後、スポーツ選手へのインタビュー、物書きとして5年が過ぎ、「そろそろ、新しい、人生をかけて極めたいと思うような道を決める時が来ているんじゃないか」と思いつつも、それが何なのかわからずに、悩んだ時期から始まる。

新宿区の小中学校、養護学校を視察し、レポートをするという区のプロジェクトの一種みたいなものとして、視察をし、また海外の小学校での経験や、不登校児を受け入れるNPO団体の施設なども紹介。体罰や、学力低下、学校安全なども問題に素直に「なぜ?」と切り込んでいく。

たとえば運動会。競争原理への過敏な反応から一時は「徒競走の順位をつけない」なんて滑稽なことがあったこともあるらしいが、現在はどうなのか?負傷するリスクの高い棒倒しなどは、今も実施されているのか?・・・という項では、運動会の歴史を引っ張り出してくる。富国強兵策の一環として、体を鍛える機会を!と始まった運動会。義務教育も始まったばかりの当初、適当な場所が無く神社やお寺の境内を使った。神社や境内に人が集まるんだから、盆踊りやイベントごとも一緒にやったらいいじゃないか、とお祭り調が加わって、外でのお弁当を楽しみにするような会になっていった。一方、政治団体が集会の場所を求め、運動会と称して「与党を倒せ!」と棒倒しをやったりしていたらしい。この部分が一番面白かった。
こんな調子で、現場、その制度の確認、成立と変遷、個別的な取り組み、そして彼の考え、と、重くない本ではあるが、しっかり出来ている。

「ある世代にある格差を、一度リセットするための公教育」だから、公立の学校にこだわったという彼。ルポ形式の文章に、「それは言いすぎでしょう」というような印象を持つことが多いが、この本にはなかった。現場の雰囲気がよく見える感じの本だ。

各小学校の様々な工夫を読みながら(立ち読みだったのだけど)、「こういう個別的な工夫を、どこか”小さなこと”と軽視していた」自分に気づいた。制度、制度、大きな影響力を持つものを、なるべく見るようにしてきた。それが経済学という学問が得意とする領域だから、だと思う。でも、ひとつひとつの工夫――例えば、外国人やハーフの子供が多い大久保の小学校では、毎月「おはよう」が違う。ある月は中国語、ある月はタイ語、というように。全校生徒が100人を切った小学校では、父兄が「親慈会」を作って、街ぐるみで学校の取り組みをサポートしている――は決して”小さい”ものではなかった。正解がなく、だからこそ個別的に、個性的に、無理なく模索していかなければならない教育の問題は、介護の問題とも重なるところが多いように思った。

耳をすませて聞いてごらん
未来の自分が言う言葉

NHKで特集されていた、自閉症の子供が書いた詩の一部。

いつかは、私も「人間ひとりひとりと向き合うサービス」がしたくなるんじゃないかな―――未来の自分の影がちょっぴり見えた。

医療崩壊

2007-04-15 00:58:18 | Book
春休み、ゼミで話題になっていた『医療崩壊』を読んだ。そろそろ春季貸し出し期間が終わり、返却しなければならないので感想を。

著者は小松秀樹氏、東大医学部を卒業し、現職が虎ノ門病院泌尿器科部長、という医師である。慈恵医大病院の医療過誤事件や、その他「現場」で起こっていることの報告と問題の指摘、政策としての改善案などを述べている。

「医療崩壊」の要因として、3つ紹介したい。
・極度の医療費抑制による人員配置不足、それからくる医療過誤
・警察による暴力―――専門的知識もなく医療過誤の現場に介入
・メディアの暴力―――専門的知識よりも患者側の意見を元に社会へ情報を提供

というものだ。
ふたつめ、警察の介入について、司法関係者は「理念からの演繹」で物事を考えている、と指摘する。こうあるべきだ!そうなってない!誰かが間違ったことをしているのだ、出番だ!という流れである。理念は怖い。スティグリッツの本には、理念の裏に本当の目的を持った非常にしたたかな市場至上主義者が描かれている。日本の司法は、もっと純粋に「あるべき論」を胸に暴力を振りかざしているのだろうとは思う。
「ドイツは解決をあきらめたのではない。法廷ではなく立法による解決を選んだのだ。」
これが多くの人間を幸福にする手立てであると思う。

三つ目、メディアの暴力。元来リスクを伴うことが前提である医療行為において、「過失」を過度に報道するメディアへの批判である。医者と患者の間の信頼関係を崩壊させ、過失を恐れる医師たちの合理的行動として、産婦人科医の減少が進む。
難しいことは「難しい」ままにし、簡単な「個人の視点=読者の視点」に逃げているメディアを憂う。
ニュースを伝える媒体が多様化し、それを手に入れるコストもピンからキリまで担ってくる中で、新聞が果たす役割はどんどん大きくなってくる。大手と呼ばれる企業はいくつもない。質の向上は、彼ら自身の自浄作用にかかっているようだ。

最後には、民主主義における知的エリートの役割と、その判断への期待が書かれている。知的エリート、「自分の頭で考える」人間へのメッセージだ。情報を自らで選び、理解し、判断する。そのあと、制度に反映させて最噴出を避ける。
情報の量と比例して、人間が頭を使わなくなってきているのだとしたら、人間は今急激に馬鹿になっていることになる。民主主義、メディア、教育、、とスティグリッツの書く世界経済の落とし穴といくつも危機のキーワードが重なったことが、非常に印象的だった。